静まりの時 2022年10月3日(月)
第二テモテ4・1~5
「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」
(第二テモテ4・1~5、新改訳2017)
パウロが若き伝道者テモテに向かって、厳かに命じています。襟を正し、座り直し、咳の一つもして、空気が張り詰めたような中に、命令が語られます。みことばを宣べ伝えなさい、と。どんな時にも、忍耐をもって、教えなさい、責めなさい、戒めなさい、また勧めなさい、と。
なぜこのような命令がなされるのか。それは「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」からである、といいます。教会の外のことではありません。イエスさまを信じた人びとが集まる教会において、このような時代を迎えるのだ、とパウロはいうのです。私たちの教会はどうでしょうか。耳ざわりのよい言葉、自分の好みに合った言葉を聞こうとしてはいないでしょうか。そのために好みの教師たちを集めようとしてはいないでしょうか。耳痛い言葉が語られたり、自分の好みでないことを語る教師がやってきたら、耳をふさぐのでしょうか。そのような教師のいる教会を後して、好みの教会を探しに行くのでしょうか。それは、真理から耳を背けることであり、また作り話にそれていくことであるといいます。もしそういうことであるならば、自分自身の人生を真実に生きることができなくなるのではないでしょうか。
パウロは、この伝道者の苦しみをよく経験したのだと思います。そしてテモテもどうようにこの苦しみを経験することになったのだと思います。パウロは、テモテに向かって、どんな場合であって、慎みを忘れてはならない、慎むということは、苦難に耐えることだ、そうして伝道者の働きは前進する。テモテよ、それが私たちの務めではないか。その務めを十分に果たそうではないか、と語り励ましているのだと思います。
ときに牧師、伝道者は孤独です。ナウエンは、その孤独こそ人間の傷の中でもっとも苦痛なものの一つであると語ります。しかしその傷と向き合い、手当をすることによって、他者への癒しに生きる可能性があると語ります(ナウエン、『傷ついた癒し人』、日本キリスト教団出版局、1981年発行)。どのようなときにも、み言葉を宣べ伝えるように召されているのですから、その召しにしたがって自分の務めを十分に果たしたいと思います。