キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました

静まりの時 2022年9月16日(金)
第一ヨハネ3・11~18

「11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
12 カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。
15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。
16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
(第一ヨハネ3・11~18、新改訳2017)

 互いに愛し合うこと、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛す、それが初めから聞いている使信であり、そのような信仰生活こそ、永遠のいのちがとどまっている者の生き方だ、とヨハネは語りました。イエスさまが私たちのために十字架に架かって死んでくださった、いのちを捨ててくださった、それによって私たちに愛が分かったのだ、イエスさまに見倣って私たちも兄弟のためにいのちを捨てよう、そのような生き方をしようとすすめます。
 愛に生きることができない、ということは、自分に死ぬことができていないからだ、とも語っているようです。互いに愛し合うためには、みなが自分に死んでいることが必要なのだ、ということでしょうか。

 ここにカインのことが記されています。創世記4章に記されている出来事です。兄カインが弟アベルを殺すことになったのは、神さまが弟アベルのささげ物には目を留められたのに、兄カインのささげ物には目を留められなかった、そのことに、兄カインが激しく怒り、弟への殺意を抱いたことにあります。神さまがえこひいきされた、そう思い込んだカインが怒ったのです。それが弟への殺意を生み出しました。弟は兄に対して、自分が殺されるようなことは何一つしていません。しかし兄に憎まれたのです。殺すほどの憎しみを抱かれてしまいました。兄は、えこひいきをしたのは神さまですから、神さまに対して憎しみをぶつければよかったかもしれませんが、弟を憎んでしまいました。

「彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」(12)。

 ここに語られているカインの悪い行い、アベルの正しい行い、とはいったい何なのでしょうか。

 創世記には、カインのささげ物に神さまが目を留められなかった理由が明確には記されていません。それでさまざまに想像されることになっていますが、大切なことは、聖書はその理由を記していない、ということです。聖書は、なぜ自分の行いが評価されず、身近な隣人の行いが評価されるのか、その理由を明確に記さないのです。それは、私たちの人生が、一所懸命生きれば幸いを受け、そうでなければ災いを受ける、という単純なものでないことと重なります。人生には不公平が内包されているのです。
 その現実の人生をどう生きるのか。ねたむのか、それともそれをうけとめて生きるのか。 もしねたみにかられ人生をうらむならば、カインのように、共に生きる人への愛に生きることができない、逆に殺してしまうような人生になる、というのです。愛に生きることができるかどうかは、自分の人生をどうとらえていくのかと深く関わっているというのです。カインは、神さまがえこひいきをしておられると思い込み、人生の不公平を呪いました。カインの行いの悪さ、はここにあるのではないでしょうか。

 逆にアベルの行いの正しさとはいったいなんでしょう。新改訳の以前の訳では「最上のものを持って来た」と訳されていますが、新改訳2017になって他の多くの聖書と同じように原文通り「肥えたものを持って来た」と訳されるようになりました。つまり創世記を見る限りアベルのささげ物がことさらに優れていたということは、明確に記されてるわけではありません。
 アベルの行いの正しさについても、聖書は明確にしているわけではない、どうして自分が祝福にあずかったのかは、やはり謎である、ということをアベルは受け止めることになった、ということではないかと思います。
 人生の幸いの時、それを自分の行いが正しかったからである、その結果をいただいたのだ、ということではない、ただ自分には何のいさおしもないけれども、神さまは幸いを与えてくださった、それを感謝して生きる、そのこと自体に行いの正しさがあるように思えてきます。
 神さまの一方的な愛に生かされている。そのような信仰生活は、隣人への健やかな愛に生きる道をひらくということではないかと思います。

 神さまの一方的な愛の中に生きる、神さまの恵みによって生かされている、という信仰生活こそ、キリスト教が語る信仰生活です。この「恵みによって生かされている」ということが見失われてしまう、すなわち行為義認がさまざまな形で忍び寄って来ると、教会のなかの愛は冷えていくのです。互いに愛し合うことが難しくなってくるのです。
 自らは罪びとであって、幸いを受けるに値しない者である。しかし神さまは日々恵みを与えてくださる。その信仰が、隣人への愛に生きる道をひらきます。