静まりの時 2022年9月17日(土)
第一テモテ5・1~6
「1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、
2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。
3 やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。
4 もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。
5 身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、
6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。」
(第一テモテ5・1~6、新改訳2017)
「年配の男の人」「若い人」「年配の女の人」「若い女の人」。おおよそ教会に集う会衆の一人ひとりに対して、どのように接するべきであるのかを、パウロは、若い伝道者テモテに語ります。
教師然として語るというのではなく、それぞれに接し方があり語り方がある、というのです。決してちやほやしなさい、と言っているのではありません。それぞれのプライドを大切にしてあげつつ、神さまの言葉ができるだけまっすぐに入るように配慮をしなさい、ということでしょう。
叱らずに勧める、ということはなかなか難しいものです。勧めた、ということを叱られた、と受け取る人もいたことでしょう。純真な心で勧めても、よこしまな思いで受け取られたといった経験もあったかもしれません。語るパウロ自身、そのような経験をしたことでしょう。だれしも神学校を卒業していきなり老齢な牧会者になるわけではありませんから、若い伝道者の苦労は多いのです。私もどうにかやって来れたのは、若く欠けだらけの者にもかかわらず、ただ召された者、という、その一点で尊敬を欠かさず信頼をもって接してくれた信徒のみなさんのおかげです。
さて、さまざまな会衆に対して「父親に対するように」「兄弟に対するように」「母親に対するように」「姉妹に対するように」と、パウロは語りましたが、そのような言葉が成り立つためには、前提が必要でしょう。
つまりたとえば「父親に対するように」との言葉は、それを語られたテモテ自身が、父親という存在に対してどのように接するのかよいのかを知っていた、という前提が必要なのだと思います。もし父親に対してどのように接していいか分からない、ということであれば、この言葉は意味をなしません。テモテが、自分の父親に対していままでどのように接してきたか、ということをパウロは知っていて、そのように、教会の会衆に対しても接していきなさい、と語っているということです。テモテは、このパウロの言葉をそのまま受け止めることのできるような、素敵な家庭に育ったのだと思います。牧会者の成育歴は、その牧会に大きな影響を与えるということでしょう。
もちろんすべての牧会者が麗しい家庭に育ったわけではありません。それぞれにとって父親に対するイメージは十人十色でしょう。父親に対するように、と語られると、自分のあまりいい思い出のない実の父親の姿が頭に浮かんでしまって、牧会どころではない、という人もおられるかもしれません。そう考えるとなかなか難しいことなのですが、やはりまことに父である神さまに対する思いが、そこで大切なことになるのかもしれません。あるいは教会は、家族なのですから、そこで父とは何か、母とは何か、兄弟姉妹にはどう接するべきであるのかを学ぶということも大切かもしれません。
続いて「やもめ」に対して、どのような牧会をすべきかも語られています。興味深いところです。使徒6章では、やもめへの食事の配給問題が起こっていますから、当時の教会においてはホットな問題だったのでしょう。
「やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです」(4)。
生活困窮者に対して、無審査で、無制限に援助をしなさい、と語っていません。家族がいるならば、まずその人たちに世話させよ、というのです。それは「親の恩に報いることを学ばせるため」であり、神さまの喜ばれることである、と。
教会は、援助もするのですが、それ以上に人生の生き方を学ぶところである、人生の生き方を学ばせるためには、ときに援助の手も控える、というのでしょう。さらには
「やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。」(3)
「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。」(6)
というのですから、なかなか手厳しい。
「自堕落な生活」ということばは、原文では、放蕩の生活をする、贅沢三昧の生活をする、享楽にひたると言った意味です。具体的にどのような生活であったのか語られていませんが、もしかすると容易に想像できることかもしれません。やもめが当時の社会にあってどれだけ厳しい生活を強いられたかを思うと、その人生をあきらめ自堕落にしか生きることができなくなってしまった、という人も多くいたことでしょう。自己責任ということだけでは理解できなことがあるのだと思います。
しかしそれでも、教会は、ただ援助する、というところではなく、教育するところである、ということをパウロは語ろうとしていたのではないかと思います。時に援助を受けつつも、人生を建て直し、人生を愛し、自分なりに精いっぱい生きていけるように導くところ、それが教会であり、牧会の使命であるということでしょう。