この奥義

静まりの時 2022年9月19日(月)
ローマ11・25~36

「兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。」
(ローマ11・25~36、新改訳2017)

 旧約聖書にはイスラエルの民へ神さまの愛が豊かに記されています。神さまはイスラエルの民をお選びになられたのです。しかしイスラエルはその心を頑なにし、神の御子イエスさまを十字架にはりつけにし殺してしまいました。このイスラエルの不信仰は、イスラエルの救われる道を閉ざしたのでしょうか。イスラエルの民はもはや救われることがないのでしょうか。
 パウロは、そうではない、イスラエルはみな救われるのだ、と語りました。もちろん自動的にイスラエルの民は救われるのだ、と言っているのではありません。やはり信仰によって救われるのです。イスラエルの民も、イエスさまを信じることによって救われるのです。いくら旧約聖書に神の民と記されているからといって、イエスさまを信じなければ救われることはないのです。

 大切なことは、この言葉がユダヤ人に向かって語られたというよりも、おそらくその多くが異邦人であったであろうローマの信徒に向かって、あのイスラエルも救われるのだ、と語られているということでしょう。
 異邦人は、救いの道が自分たちに開かれたことを喜んだのだと思います。しかしその救いは、神さまがイスラエルの民を見捨てて、異邦人に乗り換えられた、異邦人を特別に愛されたということではないでしょう。異邦人は、一方的な神さまの愛によって救われたのです。それと同じように、神さまの愛はあのイスラエルに対しても変わることがない、と語ったのです。

 自分たちが救われたのは、神さまの一方的な選びによるものであり、あわれみである。その選びとあわれみは、他のすべての人にもおよんでいる。そのように語ったのだと思います。どんなに頑なに見えても、神さまの恵みの御手は伸ばされているのです。そのような視点をキリスト者は常に持ちます。なぜなら、私さえも救っていただいたからです。