義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい

静まりの時 2022年8月23日(火)
第一テモテ6・11~16

「しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。
信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。
私は、すべてのものにいのちを与えてくださる神の御前で、また、ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい。・・・」
(第一テモテ6・11~14、新改訳2017)

 ここに三つの命令が記されています。「追い求めなさい」「獲得しなさい」「守りなさい」。信仰生活は何もしない生活ではなく、追い求め、獲得し、守ることを「する」生活です。
 何を追い求めるのか。「義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和」を追い求める。それが信仰生活でなすべきことです。
 何を獲得するのか。「永遠のいのち」を獲得する。それが信仰生活でなすべきことです。もちろんイエスさまを信じたその時から、私たちは永遠のいのちをいただています。ですからいまだ得ていないものを得ようとするように、永遠のいのちを獲得しようとすることではありません。すでにいただいているものを確かに自分のものとする、ということとして獲得するのです。あるいはまさに永遠のいのちをいただいてるものとしての歩みが随所に現れているような人生となる、ということでしょう。
 何を守るのか。共同訳2018では「この戒めを守りなさい」と書かれています。「この戒め」。おそらくこのテモテへの手紙に記されているパウロからの勧めであり、また聖書の語る真理のすべてと理解してよいのではないかと思います。信仰生活は、聖書の教えに生きる生活なのです。
 私たちはどのような状況の中にあったとしても、義と敬虔と信仰、愛と忍耐、柔和を追い求め、永遠のいのちをいただいた者としてふさわしい生活をし、聖書のおことばに従って生きていくのです。今日もそのような一日を過ごしたいと思います。

 「あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました」。

 この「すばらしい告白」の「すばらしい」は他の訳では「立派な」と訳されています。原文のギリシャ語「カロス」は「美しい」という言葉です。この上なく美しい、すばらしい、すぐれているなどと訳されていくようです。
 いったいテモテはどんな告白をしたのでしょう。どんな美しい告白に生きたのでしょう。続いての節に「ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエス」とありますが、このなかの「すばらしい」も、同じカロスという言葉です。イエスさまがポンテオ・ピラトに対してなされた告白。そのすばらしい告白、美しい告白。そのイエスさまの告白とテモテがなした告白とが重なるように思えます。
 イエスさまがピラトの前でなされた告白のようすは以下の通りです。

「さて、イエスは総督の前に立たれた。
総督はイエスに尋ねた。『あなたはユダヤ人の王なのか。』
イエスは言われた。『あなたがそう言っています。』
 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
 そのとき、ピラトはイエスに言った。『あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。』
 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」(マタイ27・11~14)

 ここで明らかになっているのは、イエスさまはピラトの前ではなにもお答えにならなかった、ということです。この世の権力を振りかざす者に向かって、神さまの最大の答えは沈黙であった、というのです。その何も答えられない、ということがピラトを驚かせた、この世の権力者を驚かせた、と聖書は語ります。それがイエスさまがピラトの前でなされた告白であったとすれば、テモテがなしたすばらしい告白も、そのようなものであったのかもしれません。私たちもこの世に向かってなすべき告白は、このようなものなのかもしれません。それこそがこの世への驚きを生み出し、勝利への道をひらくということなのでしょう。

 さてイエスさまがピラトの前でなされた告白は、上記のように一つは世の権力者を驚かせるほどの沈黙でしたが、ヨハネの福音書では、少し違うことが書かれています。

「そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。『あなたはユダヤ人の王なのか。』
 イエスは答えられた。『あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。』
 ピラトは答えた。『私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。』
 イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』
 そこで、ピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのか。』
 イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』
 ピラトはイエスに言った。『真理とは何なのか。』」
(ヨハネ18・33~38)

 ピラトとイエスさまとの対話。その対話の最後に、ピラトはイエスさまに問いました。「真理とは何なのか」。「真理とは何か」、そうピラトはイエスさまに問いかけたのです。ここでピラトはイエスさまの前に立つひとりの求道者となったように思うのですがいかがでしょうか。本来ならば、イエスさまを審く者であるピラト。審く者というのは自らのうちに真理を持っている者でしょう。しかしそのピラトは、真理とは何か、と一囚人に問いかけているのです。イエスさまは、ピラトがそのような問いを持つまでにピラトを導かれた、ということではないかと思えてきます。

 ピラトは、イエスさまに出会い、自らのうちにまことの真理がないことを知らされた、ということでしょう。イエスさまが、ピラトのまえになされたすばらしい告白とは、神さまの真理を証しされた、ということかもしれません。テモテのなしたすばらしい告白も、このように神さまの真理を証しし続けた、ということかもしれません。

 今週の「聖書愛読こよみ」のテーマは「信仰の戦い」ですが、共同訳の今朝の個所の表題としては「信仰の闘い」と表記され、「闘い」の漢字が使われています。そこに込められている意味は、この信仰の「たたかい」は、他者との戦いではなく自分自身との闘いである、ということでしょう。
 どのような中にあっても、神さまの真理を証しする、告白すること。それは何よりも、静謐な礼拝をささげ続けることなのだと思います。