静まりの時 2022年8月22日(月)
第一ペテロ4・12~19
「12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
14 もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。
16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。
17 さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。
18 「正しい者がかろうじて救われるのなら、
不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」
19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」
(第一ペテロ4・12~19、新改訳2017)
イエスさまを信じて生きる信仰生活に「試練」はつきものである、苦しみはノーマルなことである、普通のことなのだ、と聖書は語ります。苦しみには縁もゆかりもない、というのは聖書の語る信仰生活ではない、というのです。
できるだけ苦しみを避けていきたいと願うのですが、イエスさまと共に生きることを決意したその時から、苦しみは信仰生活の友、あるいは同伴者になった、ということでしょう。信仰生活は、その苦しみを、むしろイエスさまの苦しみにあずからせていただくことと受け止め喜びのときとしよう。イエスさまの喜ばれる道を歩もうとしてののしられることがあるとすればそれは幸いなことなのだ、と聖書は語ります。
この苦しみは、イエスさまの喜ばれる道を歩もうとして受ける苦しみであって、「殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい」とも語られています。
「他人のことに干渉する者」というギリシャ語は聖書の中ではここだけにしか使われていない言葉です。「他人のものを見る」という言葉が基礎となっていて、自分のものにしてしまおう、他人のものを支配しよう、という自己主張が含まれているといわれます。さらには扇動する、人びとを煽り立てる、アジるということも含まれているそうです。
イエスさまが喜ばれる道を歩もうとして受ける苦しみは「神のみこころにより」受けている苦しみです。その苦しみの中で私たちのなすべきことは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねること、です。つまりゆだねることを学ぶのです。
早朝の礼拝では、いつも奏楽の奉仕をしてくださっている方が、自分も歌いたいということから、いつのころからか礼拝の奏楽のCDを作成してくださるようになりました。昨日の礼拝では、そのCDを利用させていただきました。動画収録を意識しすぎて、少し変な言い回しや読み間違いがあったなと、昨日礼拝にあずかりながら思っていました。つながる方々が安心して礼拝がささげられることを望んでいます。そうして信仰生活の祝福を祈っています。コロナ陽性の家族は、発熱やせきが症状としてあるようですが、病院で処方される風邪のための薬がよく効いておおむね大事に至らないかたちで療養生活を過ごせているようです。お祈りありがとうございます。