静まりの時 2022年8月20日(土)
ヘブル9・11~14
「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」
(ヘブル9・13,14、新改訳2017)
10節に「新しい秩序が立てられる時まで」、共同訳2018では「改革の時まで」。
新しい秩序が立てられる時までは、雄やぎなど動物の血が「汚れた人々」に振りかけられると、その血が「聖なるものとする」働きをして、「からだ」がきよめられました。しかしこれは「礼拝する人の良心を完全にすることができません」でした。
しかし新しい秩序が立てられました。改革がなされ新しい秩序の時代を迎えたのです。
新しい秩序とは、イエスさまのことです。「キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ・・・」たのです。
それでこのイエスさまの血、すなわち十字架の血は「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」のです。
ユダヤの社会、すなわちいけにえを捧げることが日常的に理解されてきた社会では、非常に良く分かる説明だと思いますが、動物の犠牲をささげることを日常としない私たちにとってはどのようにその心に響いてくるでしょうか。
そもそも動物の血が、私たちの罪をきよめる、良心をきよいものとする、ということ自体があまりピンとこない、というのが実情ではないかと思いますがみなさんはいかがでしょうか。新しい秩序のすばらしさを知るためには、古い秩序の意味とそこにある不完全さを知る必要があるように思えます。そういう意味でも私たちは旧約聖書を学ぶことが必要なのでしょう。
しかしだからといって、旧約聖書を学ばなければ、この個所のような犠牲の精神を知ることができないかというと、そうでもないかもしれません。
犯した罪に対して、その贖い、赦しのためには、いのちがささげられなければならない、ということは、どこか分かる気がします。犯罪に対しては、それに対する相応の罰を受けるということが了解されている世界に私たちは生きています。正義を守るためなのだと思います。それはまた復讐ということは許されないということを大切にしようとしているとも思います。
私たちの小さな人間関係においても、罪といえるかどうかは明確でないにしても、ちょっとまずいこと言ったかな、相手を傷つけてしまったかな、というようなことは日常的に起こります。そういうことに対してそのままにしてはいけないな、とか、修復したいという気持ちも起こります。それは健やかな人間の心だと思います。神さまはそのように人間を造ってくださいました。
それで私たちは、何らかの修復的な行動をしますが、その前提として「ごめんなさい」という謝罪の言葉を語るものです。この言葉がないにもかかわらず、修復的な行動、例えば損害賠償や、刑事罰、行政罰などがあったとしても、人間としては本当の解決はなされていないように思えます。この謝罪をするということには、どこか「自分自身に死ぬ」ということが伴います。犠牲というと大げさかもしれませんが、損をする、負ける、自分が否定される、ということを指し出すような気がします。おそらくそういう意味での「自分自身に死ぬ」ということがなければ、修復の道は開かれることがないでしょう。この自分自身に死ぬということができるかどうかは、本当に悔い改めているかどうかが明らかにされるところです。
さて、そのように自分自身に死ぬということで、罪が修復され、赦しの道が開かれるのではないか、と考えましたが、果たしてそのようなことが、人間の力で完全に実現できるのでしょうか。まず人間は忘れっぽいですし、自分の犯した罪の記憶は希薄になります。あるいは自分としては良いことをしたつもりでも、相手を深く傷つけたということもあるでしょう。さらには、全く知らないうちに、問題を起こしているということもあります。つまり人間の修復力は、不完全なのです。
そこで新しい秩序、改革の時がきました。それがイエスさまの十字架と復活である、と聖書は語ります。イエスさまを信じる者のあつまる教会は、この新しい秩序の中に生きる群れです。つまり人間の赦し、修復力は不完全であることを知り、ひたすら神さまの為してくださった赦しの力、修復力に委ねている人たちの集まり、ということなのです。イエスさまの十字架の血が「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすること」を信じた人たちの群れ、それが教会である、ということです。
あす教会だよりが発行されますが、今回久しぶりに藤木正三牧師の言葉を掲載しました。
「迷惑」
「人に迷惑をかけさえしなければ、将来子供がどんな人間になってもよいと親はよく言いますが、一体迷惑をかけないで私たちは生きられるのでしょうか。生きるとはお互い迷惑をかけ合うことです。迷惑をかけずに生きていると思うなら、これほど無反省な自惚れはありません。ですから、目標とすべきは迷惑をかけない人間ではなくて、迷惑をゆるし合える人間です。きびしい目を自分自身にそそいで、知らないうちにかけている迷惑に気づき、やさしい目を相手にそそいで、相手からかけられている迷惑をゆるす、そういう人間です。」(藤木正三『神の風景』より)
上記のことを考えあわせると、教会はお互いに迷惑をかけ合うことを了解した群、ということになります。迷惑をかけずに生きていると思うことは、「無反省な自惚れ」であるというのです。教会の「目標とすべきは迷惑をかけない人間ではなくて、迷惑をゆるし合える人間」である、というのです。「きびしい目を自分自身にそそいで、知らないうちにかけている迷惑に気づき、やさしい目を相手にそそいで、相手からかけられている迷惑をゆるす、そういう人間」である、というのです。
そういう優しい人間関係が生まれるために、イエスさまは十字架に架かり新しい秩序を打ち立ててくださったのではないかと思います。
この早春に妻の実験によって発芽した籾(もみ)米ですが、バケツで栽培したところ、この夏頑張って成長し、ついに、稲穂をつけました。
お茶碗に半分ぐらいはなるでしょうか。
昨日は本部の浄化槽検査があり妻と本部に出かけました。下水への接続を本格的に検討することになります。20分ほどの検査で、その間読書にいそしんでいたのですが、妻ははなれの拭き掃除をしていました。じっとしていられないのでしょうかね~。よくできた妻です。