自分のからだをもって神の栄光を現しなさい

静まりの時 2022年8月19日(金)
第一コリント6・12~20

「『すべてのことが私には許されている』と言いますが、すべてが益になるわけではありません。『すべてのことが私には許されている』と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。
・・・
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
(第一コリント6・12、19~20、新改訳2017)

 「すべてのことが私には許されている」しかし「すべてが益になるわけではありません」。何をしても自由なのですが、そうして行ったことごとのすべてが益になるわけではない、自由だと主張して行ったことで自分の人生、隣人の人生、自分の住む世界を滅ぼしてしまうことがある、といいます。だから使徒パウロは「私はどんなことにも支配されはしません」と語りました。

 「私はどんなことにも支配されはしない」。そういう自由の中にある、だからすべてのことが私には許されているけれども、益にならないことは行なわない、というのです。益にならないことならば、たとえ自分の感情が行なわずにはいられなくても、その感情をコントロールする、すなわち、自分の感情の支配の中に下ること、ふりまわされることを自分に許さない。そういうふうに自分の感情からも自由を持っている、と語るのでしょう。

 本当の自由とは何か。自分のやりたいことをやり、語りたいことを語るのは、本当の自由ではなく、それは自分という罪人の奴隷、自分の感情の奴隷になっていることだ、というのです。これは福音の一つの大切なポイントです。福音が福音になるかどうかの分かれ道です。
 教会では「ゆるし」を語ります。しかしそれが誤った自由を主張させてしまっているとすれば、そこには本当のゆるしは語られていません。本当の福音が語られているとはいえないのです。

 この間違った自由の中に生きようとしてしまうことの根本に、人間の罪があるように思います。アダムとエバがそうであったように、誤った自由の主張は、自分を神とする道への願望の表れなのだと思います。

 パウロはそのような、救われてもなお罪の中に生きてしまう私たちに語ります。あなたがたは聖霊の宮である、もはや自分自身の所有物ではない、神さまによって代価を払って買い取られた存在である、その代価とは、神のいのち、である、神さまがいのちを注いでまでも買い取って下さった尊い存在、それがあなただ。だから、自分のその「からだ」をもって、神さまの栄光を現しなさい。神さまがどんなに素晴らしいお方であるのか、目には見えないけれども、確かに働いておられることを、あなたの全存在をもって表現しなさい、私たちはそのように生きるようにと神さまに招かれているのだ、と勧めました。

 「からだ」をもって神さまの栄光を現すこと。ここで大切なことは「からだ」という言葉です。心さえしっかりしていればからだはどうでもよい、精神が守られていれば肉体は罪の中にあっても大丈夫、などということではないのです。心とからだは一つなのです。
 この「からだ」という言葉ですが、新改訳ではひらがなで表記されています。「体」という漢字は最新の学習指導要領によると小学校2年生で習う漢字のようです。そのような言葉を漢字を使わずにわざわざひらがなで表記しているのには、理由があるようです。おそらく単なる肉体というのではない、という意味を込めているのでしょう。先ほど「全存在」と書きましたが、肉体も精神も心も、あるいは一人の人間の歴史、といったこともすべてひっくるめて全存在。それが「からだ」なのだと思います。それこそ金太郎あめのように、私たちの存在のどこを切ってもキリストの栄光が輝いてくる、そんなことが期待されているのだと思います。

 今日は本部の浄化槽の検査があり本部に行くのですが、浄化槽から下水に接続できるかどうかが、目下悩ましい問題として検討されています。