あなたがたは、その宮です

静まりの時 2022年8月18日(木)
第一コリント3・10~17

「10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
13 それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
17 もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」
(第一コリント3・10~17、新改訳2017)

 使徒パウロは、コリントの町の信徒たちに向かって「聖徒」(1・2)と語りかけました。このコリントの手紙を見ればとても聖徒とはいえない人たちであったにもかかわらず、そう呼びかけたのです。さらに今朝の個所では、「あなたがたは、その宮です」と語りました。様々な罪にまみれているにも関わらず、コリントの信徒の一人ひとりが、神さまの神殿である、聖霊がお住みになっておられるのだ、と語ったのです。
 「聖」とは、神さまのものとされた、という意味です。どんなに罪と弱さを持っていても、私たちは神さまのものとされたのです。その恵みのなかに生かされているのです。もし誰かが、神さまの宮である私たちを壊してしまうならば、神さまがその人を滅ぼされるとまでパウロは語ります。それだけ神さまにとって大切な存在として、私たちは生かされているのです。

 そのような神さまのものとされた、神さまの御霊が住んでいてくださる私たちですが、どのような生き方、どのような信仰生活を送るかは、私たちに託されています。土台はイエスさまですから、この上もない素晴らしい土台を、みな平等にいただいています。しかしその土台の上にどのような素材で家を建てるかは、それぞれに託されているのです。
 三匹の子豚のお話しは、このところから創作されたと言われます。狼がやって来ると、建物の真価が明らかになります。私たちはどのような家を建てているでしょうか。
 「その日」がやって来ることで、真価が明らかになるのですが、たとえ建物が焼けてしまっても土台は確かですから、助かることは助かるとも言われています。しかし損害は受けると意味深長な言葉が添えられています。

 この3章の背景にあった問題は、コリントの教会が、パウロ派、アポロ派、などと徒党ができてしまっていたということです。そのような教会に向かって、私たちはみな神さまのものなのだ、だから少々の違いはあっても、互いに協力し合って神さまのために力を合わせて働こう、神さまに仕えていこう、とパウロは呼びかけています。
 互いに違いがあるということが、互いに相手を否定し、グループを作り出す。そうしてともに主に仕えることが難しくなる、教会は分裂していく。教会はどの時代もその誘惑にさらされています。あるいはそのような弱さをかかえています。
 ですからいつも、土台は同じイエスさまである、互いに相手の中にも御霊が住んでおられる、神さまの神殿であるお互いなのだ、という視点を見失ってはいけないということでしょう。互いの違いは、どのような素材で建物を立てるかの違いであって、それは「その日」に神さまがお裁きになるのだから、今この時に裁くことは止めて、ともに神さまのために労そう、と呼びかけている、ということです。

 このような教会のあり方、信仰生活を実現するためには、愛(13章)という賜物が大切である、というのがコリントの手紙の最終結論だと思います。声の大きな人やいわゆるリーダーシップのある人、あるいはいわゆる賜物のある人によって教会が運営されるという人間的な社会ではなく、弱い者も、知識のない者も、どのような人も、その土台にイエスさまが据えられていて、その人の内には御霊が住んでおられる。そのようなお互いがそれぞれなりに神さまに仕えながら建て上げられていく。それが教会だ、とパウロはいうのだと思います。

 ツクツクボウシが鳴き出しました。夏も終わりでしょうか。雨が降ると涼しくなりました。