生き方と行いを

静まりの時 2022年8月17日(水)
エレミヤ7・1~11

1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。
2 「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。
3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。
 あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。
5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。
8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。
9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。
11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。」
(エレミヤ7・1~11、新改訳2017)

 預言者エレミヤがイスラエルの民に向かって神さまの言葉を語ります。
「あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる」(3)。
 民が悔い改めなければならない「生き方と行い」とは何であったのか。それは「役に立たない偽りのことばを頼りにしている。あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている」ということでしょう。
 その生き方と行いが、まったく変えられていないにもかかわらず「わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う」(10)。それが神さまがエレミヤに語りなさいと言われた当時の民の姿だったのです。神殿では、生き方がまったく変えられていない民のささげる宗教行事が行われています。それが「強盗の巣」と見えた、ということでしょう。

 「生き方と行い」。共同訳系では「道と行い」。
 イエスさまを信じるということは、その生き方が変えられる、その行いが変えられるということなのです。生き方が変えられるといっても自分の力で変わるはずがありません。かといってイエスさまを信じれば自動的に変化していくということでもないでしょう。
 「道」という言葉から想像すると、私たちの文化の中には、剣道、柔道、華道、茶道、香道というものがあります。それらは伝統の中に生き続け、徒弟教育をもって、見よう見まねで伝えられていくものです。明治期から大正に生きた渡辺省亭(わたなべせいてい)という日本画家は、菊池容斎という日本画家に弟子入りしたのですが、16歳で弟子入りして3年間は絵筆をとらしてもらえず、ひたすら習字をさせられた、といいます。日曜美術館で観ただけですが、とても美しい画風でした。道を学ぶ、ということはそういうことでしょう。一見本筋とは違うことのように思えること、小さなこと、その一つひとつに丁寧に生きていこうとする。そこにある人生への謙遜の姿勢。それが道を築いていくのでしょう。信仰も同じなのだと思います。いくら宮で、主の宮、主の宮と叫んでいても、この人生への謙遜の姿勢によって育まれていく道を歩もうとしないならば、教会も強盗の巣になってしまうのです。

 「とこしえからとこしえまで」(7)。共同訳2018では「いにしえからとこしえまで」。

 「とこしえ」は永遠を現すということだと思いますので、無限の過去、と無限の将来を現していると単純に考えるのですが、日本語的には、無限の過去は「古(いにしえ)」のほうがよいということでしょう。言葉は深いですね。
 今朝は健やかな朝を迎えています。お祈りありがとうございます。