王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい

静まりの時 2022年7月26日(火)
第一テモテ2・1~7

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。」

(第一テモテ2・1~2、14、新改訳2017)

 迫害の中にありながらもイエスさまを第一にして生きようとする初代教会。その群れを牧するテモテに、パウロは語ります。すべての人のために祈りなさい、とりわけ王たち、高い地位にあるすべての人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝を捧げなさいと、語ります。現代の私たちに当てはめると、天皇、首相や大臣、議員たちのために、職場で上司にあたる方のために、さまざまな組織の中にある責任者の方々のために祈りなさい、ということでしょう。
 政教分離は大切なことだと思いますが、それは政治や社会に対して無頓着でよいというのではないと思います。社会正義のために多くのキリスト者たちが努力してきたこと、また今もそうしていることを忘れてはなりません。私たちは政治家や経済界で責任のある方々のために祈らなければならないと思います。
 その目的は、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためである、と語りました。共同訳2018では「穏やかで静かな生活を送るため」とありました。私たちの人生の平安に関わることである、というのです。

 1節に「そこで」とあります。前節からの流れの中で「そこで」、すなわち、したがって、だから、という意味です。前節を見てみましょう。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒涜してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。」
(第一テモテ1・18~20)

 すこし恐ろしい内容が記されています。パウロからテモテへの私信、すなわち私的な手紙と考えればよいのかもしれませんが、実際は、当時の手紙というものは、教会の礼拝で朗読されることが普通のことだったようですから、実質は公の文書です。しかしそのなかに「ヒメナイとアレクサンドロ」といった個人名が記されて、しかもほめられたことであればまだしも、「健全な良心を捨てて、信仰の破船にあった」「神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡した」と書かれているのです。現代ならは名誉棄損で訴えようとする人も出てくるかもしれません。しかしパウロのほうも、名指しされて非難されるほうも、一様に教会の権威の中に従おうとした人たちだったのでしょう。

 健全な良心を捨てた、信仰の破船にあった、ということが具体的にどのようなことであったのかわかりません。しかしそう書かれても仕方のないことがあったということでしょう。パウロは、あるいは教会はそのような兄弟姉妹に対して厳しく対応した、それが初代教会の姿でした。
 そのことを受けて、「そこで」「したがって」「だから」、すべての人のために、とりわけ王たちと高い地位にあるすべての人のために祈りなさい、と続きました。そういう社会的に責任のある存在の祝福が、自分たちの平安な生活の支えになる、と続きます。

 私は「秩序」の大切さが語れているように思います。「健全な良心」を捨ててしまっている兄弟姉妹を見過ごしにせず厳しく対応していく教会。そこで大切にされている「秩序」。そしてその教会が置かれている社会の「秩序」。ここに社会をも含めて「秩序」を大切にすること、秩序が守られることが、平安な信仰生活を支えていくということ。私たちの信じる神さまは無秩序なお方ではないのです。そのお方のからだである教会も無秩序であってはなりません。そしてそのように秩序を大切にする教会が、社会全体をきよくしていく、そのように教会は召されている、神さまから期待されている、ということではないか、と思いました。

 牧師会では各部や委員会の報告の時があります。各部の担当理事、委員会の委員長から報告があります。責任上、そのようにしているところもありますが、秩序を大切にするという心もそこには含まれています。委員会であれば、委員の誰からでも報告してよいようなものですが、必ず委員長から報告するのです。年齢も、経験も、国籍、文化も違う者たちが一緒に福音宣教のために労するのですが、この秩序が大切にされないと、結局、声の大きい者、経験の長い者、話しの上手な者の世界になってしまうということでしょう。
 昨日、調和(シンフォニー)ということを少し書きました。各楽器に違いがあっても、一つの音楽を奏でていくことの素晴らしさが教会である、ということ。この調和のために指揮者の存在は大きいですね。指揮者がふる指揮棒を大切にしないと、個々の楽器がどんなに美しい音色を奏でていても、全体として美しくありません。美しくないどころか、交響曲においてはじゃま以外の何ものでもありません。指揮者を軽視し秩序を守らない楽器は、その音が力強く鮮明であればあるほど困った存在となるのです。

 先日、金城重明先生が死去されたとの報道がありました。2000年に沖縄で伝道会議があったときに、あつまった数千人のキリスト者の前で、集団自決を生き延びた体験、証しをしてくださいました。衝撃でした。またこの事実をあまり知らなかった自分を恥じました。「私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送る」ことができるように為政者たちのためにも祈りたいと思います。