静まりの時 2022年7月20日(水)
イザヤ43・1~7
「だが今、主はこう言われる。
ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。
『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。北に向かっては「引き渡せ」と言い、南に向かっては「引き止めるな」と言う。わたしの息子たちを遠くから来させ、娘たちを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」
(イザヤ43・1~7、新改訳2017)
前節42章24,25節に
「だれがヤコブを、奪い取る者に渡したのか。イスラエルを、かすめ奪う者に。それは主ではないか。私たちはこの方の前に罪ある者となり、主の道に歩もうとせず、そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、憤ってこれに怒りを注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても彼は悟らず、自分に燃えついても心に留めなかった。」
(イザヤ42・24,25、新改訳2017)
「この方」すなわち神さま「の前に罪ある者となり、主の道に歩もうとせず、そのおしえに聞き従わなかった」私たちは、神さまの裁きの中に置かれました。しかし「あたりを焼き尽くしても彼は悟らず、自分に燃えついても心に留めなかった」。それが人間の姿でした。私たちの姿だったのです。
「だが今、主はこう言われる」。神さまの前に罪の犯し、その神さまの裁きの中に置かれたにもかかわらず悔い改めない人間。自らにさばきの炎が燃えついていても心に留めない人間。そのような人間に向かって神さまは語られます。それが43章からの言葉です。
私たちは、神さまによって創造された存在である、いま神さまの御手の中にある。どこにあっても神さまの万全の守りがある。恐れる必要はない。この世界からどんなに否定的な言葉を浴びせられても、神さまだけは「高価で尊い」と語って下さる。さらには神さまは私たちを用いてご自身の栄光を世界に現わそうとしてくださる。私たちは神さまに愛されている存在なのだ。私たちのうちには愛される理由は何一つない。むしろ滅ぼされるべきものだった。足りなさや弱さを数えればきりがない。しかし創造主である神さまの一方的な愛の中にひたすら愛されている存在である、と。
この神さまの愛の言葉をどれだけ深く、またまっすぐに受けとめられるかは、前節の言葉の受け止め方にかかっていると思います。すなわち自らの罪をどれだけ真実に受けとめられるかどうかにかかっているのです。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」(7)
この最後の言葉は、新共同訳では「形づくり、完成した者」、共同訳2018では「形づくり、私が作り上げた者」。つまり中途半端な創造ではない。完成したのだ、と言われています。その目的は、神さまの栄光です。
私たち人間はすべて神さまの栄光のために造られたのです。そしてその創造はすでに完成していると聖書は語ります。足りなさや弱さが克服されて、そうしてようやく神さまの栄光をあらわす者となる、というのではなく、いまの私が、すでに神さまの栄光のために生かされている、というのです。
足りなさや弱さを克服することも大切なことかもしれませんが、今のありのままの私が神さまの栄光のために造られていることを感謝することは、生き方を大きく変えるのではないでしょうか。足りなさや弱さも大切なものに思えてくるのではないでしょうか。
「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(第二コリント12・9)