静まりの時 2022年7月9日(土)
第二列王記22・8~13
「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」
(第二列王記22・11、新改訳2017)
このヨシヤは、紀元前640年から31年間、南王国ユダの王とのこと。主の目に悪の道を歩んだ父アモンが、家来たちの謀反によって暗殺されると、民衆は謀反を起こした者たちを打ち殺し、アモンの子ヨシヤを王としました。ヨシヤは8歳で王となりました。ヨシヤは父とは打って変わって主の目にかなうことを行いました。
ヨシヤは18歳になったとき、神殿の破損の修理を行うように命じました。それまで神殿のために集められてきた金が、工事担当を担当する人たちに渡されてず工事がストップしていたようです。修理費が渡されると工事担当者たちは忠実に神殿の修理に労しました。監査も必要でないほどの忠実な働きでした。
神殿の修理が進むと予想していなかったことが起こりました。神殿から「律法の書」が見つかったというのです。それを見つけた大祭司ヒルキヤは、書記シャファンに渡します。シャファンはその律法の書を読みました。シャファンは、王ヨシヤに神殿の工事の進捗状況を報告する際、この律法の書についても報告しました。シャファンは律法の書を王の前で朗読します。それを聞いた王は「自分の衣を引き裂き」ました。
衣を引き裂く、という行為は、悔い改めを表しているのだと思います(ヨシュア記7・6)。
そしてあらためて祭司や書記たちを呼び集め命じます。
「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。」(13)
この主を求めよ、という言葉は、新改訳第3版では「主のみこころをもとめなさい」、共同訳2018では「主の伺いを立てに行きなさい」、新共同訳では「主の御旨を尋ねに行け」。原文の単語は、「尋ね求める、探す」というような意味とありました。
みことばが朗読され、悔い改めが起こり、あらためて主のみこころが求められる、ということが記されています。ヨシヤは、自分たちの先祖がこの書物(申命記であったと言われます)の言葉に聞き従わなかったので、大変なことになった、もう一度主のみこころを求め、それに聞き従おう、と宗教改革に前進していきます。聖書の御言葉との出会いが悔い改めを起こし、悔い改めによってあらためて主を求める信仰へと導かれ、さらにみこころを学びそれに従っていく信仰生活が前進するということでしょう。礼拝において、日々のデボーションにおいて、とりあえず聖書の言葉を朗読する、しずかに思いめぐらす、そうして自らを振り返っていく、そこに悔い改めが起こる、そしてさらに信仰生活に前進していく。これが大切です。
さてこの申命記改革とも呼ばれるヨシヤの宗教改革によって、イスラエルはエルサレム中心の信仰国家により前進していったと言われます。
「申命記改革によって、エルサレムとその聖所の重要性は著しく増大した。ダビデ以来中心的な聖所であったエルサレムは、この時代以降、唯一の正当なイスラエルの礼拝所となった」
(M・メツガー、『古代イスラエル史』、新地書房、1983年、179頁)
それまでいろいろなところで礼拝がささげられていたのですが、それはその土地の習慣や他宗教の影響を受けざるを得ない状況の中にあったということのようです。それがこの律法の書の発見によって、簡単にいうと「中央集権化」が起こったということです。
キリスト教会において、初代教会が素晴らしく完璧な教会であって、それが時代の中で世俗化が進み、純粋性が失われて行った、だから初代教会に帰ろう、という論があります。しかしこれは教会史を誤解していることであると、神学校ではよく言われました。教会史を学ぶと、イエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって出発したユダヤ教ナザレ派が、従来のユダヤ教との違いを鮮明にしなければならないことからキリスト教会が前進し、異邦人への宣教によって、純粋な教理が確認され、さらに異端との出会い、これは教会の外からもまた内からもあり、ということですが、これによってさまざまな教理がさらに前進して行った、そうして今日のキリスト教徒なっている、というのが真実なのです。
エポックメイキングという言葉がありますが、キリスト教の教理は、その時代の課題の中で再考され、画期的な出来事として前進していったということです。今後もその可能性がまだまだあるというのが教会の基本的考え方だと思います。もちろん三位一体、キリスト論などは、一つの頂点にあるとは思いますが。しかし教理である限り完全なものはないという視点が大切ですね。ヨシヤの宗教改革も、すばらしい過去があり、それが時代の事情の中で堕落し、それをもう一度刷新した、というのではなく、もともと素晴らしい過去というものはなく、手探りでここまで来た結果、いろいろな問題が起こってきた、だから刷新しよう、ということです。
今日の教会も、小さなうちは特段問題はなかったけれども、人数が増えるとどうしても組織化しなければならなくなり、そこで新たな問題が生まれます。しかしその問題は多くの人びとに新しい気づきを与え、ともに祈りつつ解決に向かって行くとき、新しい前進を生み出すでしょう。教会はこれをく繰り返していくのです。そこで自分たちのからだが成長することを見て、新しいサイズの服に着替えることができると、教会は成長していく可能性を持ちますが、いつまでも従来の服にこだわると、奇妙なファッションになりますね。本人はそれでもいいのですが・・・どうなのでしょう(笑)。