静まりの時 2022年7月2日(土)
使徒6・1~7
「この提案を一同はみな喜んで受け入れた。」
(使徒6・5、新改訳2017)
この「静まりの時」は、日本聖書協会が発行している「聖書愛読こよみ」に従って聖書の個所を選択しています。週報にも掲載していますので、教会の皆さんの日々のデボーションの助けになることが期待されています。(もちろんこれに従わなければならないということではありません)。30年以上前に伝道師で八日市教会にお世話になっていた時に週報の担当もさせていただいたのですが、その時はB5からA4に変えたいと牧師が言われたので、ほぼデザインから考えることになりました。10年前に赴任したときに、その時のデザインがほぼそのまま使われていたのでちょっとうれしかったです。その時すでに、この聖書愛読こよみが掲載されていました。今朝の聖書の個所もその「聖書愛読こよみ」に従っているだけですが、この個所は先々週の教会学校のお話しの個所でしたし、また昨日アップした「運営と管理」にも取り上げられていた個所でした。不思議な共時性を感じます。
さて、生まれたばかりの教会において問題が発生しました。
「そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。」(1)
教会が成長するにつれ、問題が起こってくる。それが教会であると聖書は語ります。教会が成長すれば問題がなくなるというのは幻想です。また教会というところには問題は起こらないというのも幻想あり、またそれは教会を誤解していることでもあると思います。そういう幻想や誤解の中にあることが問題であり、新しい問題を生み出していくことになります。
「ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た」。同じユダヤ人でありながら、母語がギリシャ語かヘブル語かの違い。これは単に言葉の違いだけでなく、そこには文化の違い、歴史の違い、おそらく生活環境の違いがあったのだと思います。そういう差異が問題の背景にありました。不満は「ギリシア語を使うユダヤ人」から「ヘブル語を使うユダヤ人」に対して出ました。ヘブル語は旧約聖書の言葉でありユダヤの伝統的な言葉です。それに対してギリシア語は、当時の世界の共通語でした。ギリシア語を使う現代的なユダヤ人たちが、伝統的な文化を大切にして生きたユダヤ人たちから差別を受けていたということでしょうか。差別は食べ物の量に反映され、それにがまんがならなくなったギリシア語を使うユダヤ人から文句が出たということでしょうか。差別というのは経済的に損をすることなのです。
「毎日の配給において」。結局人間は飲み食いが問題になるのだ、と言った人がいました。なるほどその通りかもしれません。では飲み食いを止めればよいのか、というと、初代教会はそういう選択をしませんでした。できるだけ愛餐を大切にしようとしました。しかし結局は聖餐を第一にして、それとは別の交わりである愛餐は無くてはならないものとはなりませんでした。
この問題を解決するために初代教会がとった方法を聖書がこのようにきちんと書き記している意味はいったい何でしょうか。私はそこに「福音」があるということではないかと思います。問題が起こらない方が良いのですが、先ほども教会において問題が起こることは普通のこと、ノーマルなことである、と書きました。大切なことは、その問題にどのように取り組んでいったか、ということで、教会らしい取り組み方がある、教会ならではのやり方がある、ということ。それは、そこに福音がある、ということなのだと思います。いくつかの点を考えてみたいと思います。
「そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。」(2)
12人の使徒たちは、弟子たち全員を呼び集めた、といいます。いったい何人が集まることになったのでしょうか。すでに使徒2章41節には3000人が弟子に加えられた、とありますから、このような数の人たちが集まったということでしょうか。もしそうだとすれば、これはすごいことが起こっていることになります。びわ湖ホールの大ホールで約1800人収容ですから、球場のようなところでしょうか。もちろんそのように考える必要はないかもしれません。実際には、教会の代表的な人たちが集まったということなのかもしれません。たとえそうであったとしても聖書が「全員を呼び集めた」と書いていることが大切なことなのだと思います。
もうすぐ選挙がありますが、選挙によって選ばれた人が国会で会議を行って下さいます。それは国民「全員を呼び集めた」ことであるのか、それともないのか。実際はどうであれ、本来ならば有権者全員を呼び集めたいところが、物理的に難しいので、選挙で選ばれた人で会議が行われている、ということでしょう。今日でも、全員を呼び集めた、ということを大切に考えるとすれば、選挙に行くことは大切なことですね。
教会でも同じです。役員会は、総会にて選出された人たちです。本来ならば、全員を呼び集めるところを、役員に委任しています。ですから役員会は「全員が呼び集められている」ことでもあるのだと思います。またそのように反映される配慮が必要なのだと思います。女性が半数を超える集団の中で、役員に女性がいないというのは、全員を呼び集めていることにならないですね。
さて全員の前で12使徒たちは次のように語りました。
「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(2、3、4)
まず聖書の言葉を大切にする、具体的には12人の使徒たちがそれに専心することができる、ということを教会の最重要課題として確認しました。教会が教会であるためにいったい無くてはならないものは何か、をはっきりと提示したのです。どんなに良い解決があったとしても、聖書の言葉が後回しにされることであれば、それは教会の解決ではありません。福音はないのです。どんなに愛に溢れた活動があり、心優しい人たちが集まり、麗しい交わりがなされていたとしても、聖書の言葉が後回しにされているならば、それは良い共同体であるかもしれませんが、神の教会である、とは言えない、ということでしょう。
教会は聖書の言葉を語ることころである、教会に行けば聖書の言葉に出会うことができる、ということを大切にしたのです。たとえば、心筋梗塞を発症して救急車で病院に行ったところ、行ったその病院はとてもにこやかな医療スタッフがいて、麗しい雰囲気で居心地のいいところだったとしても、実はカテーテル治療は今行なっていないのですよ、交わりで忙しくてカテーテルのための医療機器をそろえるのが後回しになっているのです、と言われたら、とっても困りますね。少々気難しい医療スタッフがいたとしても、しっかりと専門性をもって治療していただけるところが病院の意義なのだと思います。教会もこの世にあっては、聖書の言葉を語るということが期待されているのです。初代教会はそれを知っていました。
そこで「執事」が選任されることになりました。執事とは「給仕する人」という意味です。選択の基準は、無差別の選挙ではありません。「あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい」。
まず「あなたがた」つまりキリスト者以外に素晴らしい人がいてもその人は専任の基準を満たしていません。教会の問題は、教会で解決しようとします。最初から第三者を連れて来るなどということは考えません。「御霊と知恵に満ちた」。霊的な人。それは昨日もガラテヤ書から学びました。知恵に満ちた人。知識が豊富という意味ではありません。人間関係において、配慮のできる人ということでしょう。「評判の良い人」。教会の中で評判の良い人、社会生活の中で評判の良い人、家庭生活において評判の良い人、などなど、いろいろと想像できます。いずれにせよ基準を設けたということですね。
このような話し合いによって教会は問題に対応しました。そして教会は
「この提案を一同はみな喜んで受け入れた」
のです。一方的な提案で決定するのではなく、参加者に諮られ、合意形成がなされた、ということでしょう。教会は、このように「会議」によって合意形成されて、いろいろなことが解決されていく道を求めていきました。のちに「公会議」と呼ばれるものへと発展していきます。
さて選ばれた人たちは以下の通りです。
「彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオ」。
簡単に決まったのでしょうか。やはり選挙をしたのでしょうか。推薦がなされたのでしょうか。分かりませんが、彼らはこの6人「を選び」ました。選ぶ道筋がどうであれ「呼び集められた全員」が選んだのです。
そして「この人たちを使徒たちの前に立たせ」ました。「使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた」とあります。手を置く。すなわち「按手」がなされました。互いに手を置き祈ったのではありません。使徒たちが、手を置き、祈ったのです。神さまの恵みが付与されるということをしたのです。これ以降は、この6人が為すことは、使徒たちが為すことであり、また教会の全員が為すことである、としたのです。使徒たちはイエスさまに召された人たちでしたので、結局イエスさまの為されることとしたということですね。
「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」(7)
「こうして」神のことばは広まっていった、と聖書は語ります。教会に問題が起こったから衰退していった、ということではなく、起こった問題に対して逃げずに丁寧に対応していったことにより、教会はますます前進していったというのです。問題が起こることは問題ではありません。問題にどのように対処するかが大切なのです。初代教会は、起こった問題から執事が生まれました。問題によって、新しい取り組みが生まれ、教会がより充実していく道をひらいたというのです。
「祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」。祭司は、イスラエル国家においては、政治で言えば与党的な立場、経済活動で言えば大手財閥系の人たち、職業で言えば、ちょっと強引ですが、国家公務員でしょうか。この出来事を通してそういう人たちが信仰に入って行ったのです。職業に貴賤はありませんし、経済的、社会的地位によって人の価値が変わることでは全くありません。祭司がことさら重要な人たちということではありません。しかしこの記述が物語っているのは、社会が無視できない存在に教会が成長していった、ということでしょう。それまではイエスさまの十字架の出来事など何かと物議を醸していた群れではありましたが、まだユダヤ教の中の新興勢力、小さな群れであったナザレ派だったのだと思います。しかしこのあたりから、社会が、そして世界が無視できない存在に成長していった、ということでしょう。
危機は大きな前進へのチャンスとなりました。