静まりの時 2022年6月28日(火)
レビ25・35~38
「もしあなたの同胞が落ちぶれて、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼をあなたのところに在住している寄留者のように扶養し、あなたのもとで生活できるようにしなさい。彼から利息も利益も得てはならない。あなたの神を恐れよ。同胞があなたのもとで生活できるようにしなさい。
彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利益を得てはならない。わたしはあなたがたの神、主である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。」(レビ25・35~38、新改訳2017)
共同訳2018などでは25章全体の表題として「安息年とヨベルの年」とありました。50年に一度すべてをリセットするルールが記されているところです。その中に上記の箇所があります。
「あなたの同胞」、すなわち共にエジプトの地から出発してきたユダヤ民族の中に、「落ちぶれて、あなたのもとで暮らしが立たなくなった」人が生まれてしまったら、そのままほおっておくのではなく、また見て見ぬふりをするのでもなく「あなたのところに在住している寄留者のように扶養し、あなたのもとで生活できるようにしなさい」と主は語られました。
「寄留者」という存在に対して、ユダヤの社会は「扶養し、あなたのもとで生活できるように」していたのですね。その寄留者に対すると同じように、貧しくなった同胞が、生活できるように扶養しなさい、と主は語られたのです。さらに、その場合「利息も利益も得てはならない」といわれました。
これは古代社会において他の民族との決定的な違いであると言われます。
「しかしイスラエルが古代の他の民族と対比して根本的に異なったところは、社会的平等に対する、金銭の特権に対する態度であった。宗教的原理がそこでは絶対であった。カリスマ(特別の恩恵)をもっていると見られた祭司階級の人々をのぞけば、すべて世俗のユダヤ人はかれらのあいだできびしく平等であった。・・・ローマのフミリオル(卑賎なるもの)は、隷属平民をひきつれ紫のトガを着て元老院に行く裕福な貴族と途上で出あったとき、かれらと平等であるとは感じなかった。しかし神殿の前庭で、もっとも貧しい信者が天に向かって腕を伸ばして祈っているとき、かれらはヤハウェの眼にはヘロデと平等であることを知っていた。」
(ダニエル・ロプス、『イエス時代の日常生活』1、山本書店、1964年、233頁)
この金銭の特権に対しての社会的平等は、宗教的原理によって生まれ、守られていた、ということでしょう。「・・・利益を得てはならない。わたしはあなたがたの神、主である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである」。平等は、ヒューマニズムや人間の道徳心から生まれるものではなく、宗教的な原理、すなわち絶対的な存在によって生まれ保たれるるということでしょう。私たちはつねに誰かとの比較にさらされながら生きていますので、相対的な中にあっては浮いたり沈んだりしています。しかしイエスさまを信じた、ということは、絶対的な存在に出会った、ということです。そしてその絶対的な存在が、私と無関係に存在されているのではなく、私を愛する、私とともにいる、という関係の中に存在されることになった、それが私たちがいただいた信仰です。ですから、「神殿の前庭で、もっとも貧しい信者が天に向かって腕を伸ばして祈っているとき、かれらはヤハウェの眼にはヘロデと平等であることを知ってい」る私たちなのです。
自助努力も大切かもしれません。しかし自助努力ではどうにもならない現実もあることを忘れないでいたいと思います。十分なことはできないかもしれませんが、皆が共に生きることができるために、それぞれの力に応じて助け合うものでありたいと思います。そうして、私たちを救って下さったお方が、私の主であり私の神であることを確かにしたいと思います。
このような神さまの前に互いに助け合うことを大切にする信仰的な姿勢は、経済の状況と人間の価値は比例しない、リンクしない、ということがその土台にある、ということかなとも思えます。人間の存在の価値は、経済にも、あるいは能力や賜物、経験や知識ということによっても左右されない、ということでしょう。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(第一コリント12・26,27)
「落ちぶれた同胞」は、「キリストのからだ」のその一つの部分である、そしてその「キリストのからだ」に私もつなげられている、という視点。同胞が落ちぶれていることが、私の痛みとなる、ということ。「落ちぶれた同胞」は、神さまの目にとって高価で尊い存在であり、また私にとっても無くてはならない大切な存在である、ということでしょう。
娘の家庭菜園のジャガイモにトマトができたと感動していたら、ジャガイモの実とのこと。
「ジンガサハムシ」を発見しました。ちょっと写りが悪いのですが、透明な翼と黄金に輝く背中が美しかったです。
妻がもみから育てている稲もようやく分けつしはじめました。