本体はキリストにあります

静まりの時 2022年6月27日(月)
コロサイ2・16~19

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。
 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。」

(コロサイ2・16~19、新改訳2017)

 コロサイは、現在のトルコの中にあった古代の町とのことで、その町に生まれた教会にパウロが書き送った手紙がコロサイ人への手紙です。コロサイ教会はパウロの直接の伝道によってできた教会ではなかったようです。

「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。」

(コロサイ2・8~10)

 このように書き送らなければならない事情、問題がコロサイ教会にあった、ということでしょう。「あの空しいだましごとの哲学」とはどのようなものであったのか。パウロは「人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません」といいます。食生活のこと、例祭のこと、暦のこと、安息日のことだったのでしょうか(16)。しかしこれらは「来たるべきものの影」(17)である、大切なことは「キリスト」であって、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。だから人間の言い伝えやこの世のもろもろの霊に心奪われる必要はない、「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。」とパウロは語りました。人間の言い伝えやこの世のもろもろの霊に心奪われると、キリストに満たされていることが分からなくなってしまう、ということでしょう。
 教会はさまざまな文化にさらされています。文化そのものは悪いものではありません。しかし文化が、キリスト以上に大切にされるものとなったとき、健康な信仰が損なわれていきます。イエスさまに満たされていることが分からなくなってしまうのです。そのとき文化的なものは、悪魔の道具になってしまいます。

 キリスト以上に文化的なことが大切にされはじめ、健康な信仰が損なわれていくとどのような信仰生活、教会生活となるのか。これは「この世に生きているかのよう」な生活になるとパウロは語ります。ではこの世に生きているかのような生活、この世的な生き方とはどのような生き方なのか。

「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。」(コロサイ2・20、21)

 「つかむな、味わうな、さわるな」という定めに縛られる生き方。それがこの世的な生き方である、というのです。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、といった律法主義的な生き方は、この世的な生き方なのです。

「これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」(コロサイ2・22、23)

 そのような律法主義的な生き方は、「人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えます」と続きます。
 「人間の好き勝手な礼拝」。キリストを後回しにした人間の好みに左右される勝手な礼拝。「自己卑下」。キリストを抜きにし、いたずらに自分を低めること。謙遜な口ぶり。「肉体の苦行」。肉体的苦痛を強いるような行動、礼拝での起立も度が過ぎてしまってはキリストが後回しになるということでしょうか。こういったものは、一見「知恵のあることのように見える」というのです。なんか、すっごいな~と見える。しかしそれには何の価値もない。ただ肉を満足させるだけだ、「肉の欲望を満足させる」(新共同訳)だけである、とパウロは語りました。結局、自分の欲望の満足のために礼拝生活、信仰生活をしているだけだ、と断言しました。

 この世的な生き方というと、何か自堕落な、世俗的な生き方を想像しますが、パウロはその逆で、「つかむな、味わうな、さわるな」といった、一見宗教的で、敬虔な感じがする生き方を指して、この世的な生き方、といったのです。

 私たちは、もうこの世的な生き方から救われたのですから、「つかむな、味わうな、さわるな」といった生き方から解放されているのです。キリスト抜きの「人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行」に心奪われる必要がないのです。もしそのような生き方がイエスさま以上に大切にされ始めると、イエスさまに満たされていることの喜びが失われていくのです。しっかりとイエスさまだけに結び合わされていたいと思います。またそのような信仰生活、教会生活を送りたいと思います。