静まりの時 2022年6月17日(金)
レビ25・23~28
「土地は、買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だからである。あなたがたの所有するどの土地においても、土地を買い戻す権利を認めなければならない。
もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。その人に買い戻しの権利のある親類がいないときは、彼の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰ることができる。もしその人に返す余裕がないなら、その売ったものはヨベルの年まで買い主の手にとどまる。しかし、ヨベルの年にはその手を離れ、彼は自分の所有地に帰ることができる。」
(レビ25・23~28、新改訳2017)
ヨベルの年には土地の所有を元通りにすることが、さらに具体的に語られています。様々な事情で売ることになった土地を買い戻して元通りにすること。それが難しい場合でも、何とか元通りにすることができるようにいくつかの方法が提案されています。
そうまでして土地を元通りにするのは、土地は神さまのものであり、イスラエルはその神さまのもとに在住している寄留者だからです。ヨベルの年の目的は、自分たちが神さまの土地に在住している寄留者であることを確かにすること、でした。
私たちは地では寄留者なのです。今生かされている土地、あるいは自分を生かしているすべてのものは神さまのものなのです。自分のものではないのです。
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11・13)
旅人、寄留者として生きる。そのことを告白して生きるということは、地上においては「約束のものを手に入れることはない」という人生を送ることです。志をいただき、それに向かって努力し、完成し、立派に錦を飾る、というような生き方があったとしても、信仰者は、それで約束のものを手に入れた、という人生としないのです。地上では旅人、寄留者なのです。
この世では、旅人、寄留者として生きるということは、この世においてあらゆる執着から自由にされているということでしょう。
「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1・21)
しかしそうはいっても私たちは日々さまざまなものに固執して生きています。
先日出かけた際、宿泊所での食事は、感染症対策をしたうえでのビュッフェ形式でした。手袋をして食材をお皿に乗せていくのですが、どうしてもとりすぎてしまうのです。結局、帰宅して体重を測ると1キロほど増えていました。現在は少し減りましたがそれでも旅行前に比べて500グラムぐらい多い状態です。(だいたいこんな細かい数字を記録しているということ自体にも問題を感じますが)。何か目の前に美味しそうなもの、珍しいものがあると自分のお皿に乗せずにはいられない、というさもしい根性にも執着心がありありと出ています。
40年前にKGKでお出会いしたことのある方に今回総会でお出会いしました。ご主人とともに教会を越えた働きを精力的にしてこられましたが、数年前にご主人を天に送られ、現在はまた違った働きをしておられました。ご主人の帰天は突然だったようです。出張先で倒れ緊急入院され、ご本人から、ちょっと過労で入院することになったと連絡があったのですが、その翌日に病院から連絡があり死亡が伝えられたということでした。「主人は二倍速で生きたのよ」と言っておられました。
どんなに無念だったことだろう、その喪失感はどんなに大きなことだろう、と想像しています。しかし旅人であり寄留者であることを告白していてくださるのだ、と深く思いました。
少し前の写真です。田んぼの稲はもう分蘖(ぶんげつ、ぶんけつ)してしています。夕日の落ちる田んぼはまるでどこかのリゾート地ですね。麦の収穫もおわりました。