静まりの時 2022年6月16日(木)
レビ25・18~22
「あなたがたはわたしの掟を行い、わたしの定めを守らなければならない。それを行うなら、その地に安らかに住むことができる。地は実りをもたらし、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。
あなたがたは、『もし私たちが種を蒔かず、また収穫もしないなら、七年目には何を食べればよいのか』と言うであろうが、わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる。あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、前の収穫をなお食べている。九年目まで、その収穫があるまで、なお前のものを食べることができる。」
(レビ25・18~22、新改訳2017)
「わたしの掟」。この場合2節以降に記されてきた「地の安息」のことでしょう。六年間は人の手で耕作をし、7年目にはそれをせず地に安息を与えるということです。そうすれば「その地に安らかに住む」ことができる、平穏に暮らすことができる、と神さまは言われました。
この神さまのご命令にそのまま従うことができれば、それでよいのですが、神さまは「もし私たちが種を蒔かず、また収穫もしないなら、七年目には何を食べればよいのか」(口語訳では、7年目に耕作を行わないならばその翌年の8年目には何を食べればよいのか、という意味に解釈されています)という人のことを予感しておられます。そしてそのような人に向かって、6年目に向こう3年分の収穫を与えるので、地の安息があけた後もちゃんと生活が成り立ちますよ、と言って下さいました。神さまは配慮にとんだお方です。
6年目は3年分の収穫を生じさせる。その収穫は、その年だけで消費するのではなく、向こう3年分なので、その年は収穫の三分の一を消費する。翌年は残りの半分を消費する。そして三年目は残りで経済を回す、ということでしょう。計画的な経済運営が求められています。信仰者は神さまのみにお頼りして生きるので、貯金してはならない、などとということはない、ということですね。エジプトのヨセフも膨大な量の蓄えによって飢饉から世界を救いました。蓄えをし将来をみて計画的に経済を運用していくことも信仰者の生き方なのです。
「わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる」(21)
「しかし六年目に私は命じて、あなたがたに祝福を与える。それで地は三年分の収穫をもたらす。」(21、共同訳2018)
「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。」(21、新共同訳)
神さまは、人間が神さまの掟に従うときに生じる人間の心配ごとを、予測し、先回りして備えて下さるお方なのですね。その心配ごとに対して、人間に理解できるように説明してくださり安心感を与えてくださいました。
8年目には、天からマナを降らせることもできる神さまですが、そういう方法ではなく、6年目に向こう3年分を備える、という方法をとられました。8年目にマナを降らせるということであれば、8年目を迎えるまでは心配は消えませんが、6年目に向こう3年分の収穫を見せてくださる、のです。ただ3年分を6年目にすべて消費してしまってはいけません。先ほども考えましたが、計画的に消費していくことが、人間に求められています。行き当たりばったりではなく、将来を見て適切な生活が求められたのです。
地の安息という神さまの掟を守ることが、私たちが地で安らかに生きる道をひらく、と言われました。地において安らかに、平穏に生きるためには、地の安息という神さまの掟を守って生きていかなければならない、のです。「休む」ということ。そして「休ませる」ということ。これが、地に生きる道に安息をもたらすということでしょう。
休むから安息である、というのは分かりやすいことですが、休むということには、神さまにゆだねるという信仰が問われます。神さまにゆだねて生きるということが、地にあって安らかに生きる道をひらく、ということですね。
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイ5・5)
柔和な者は、地を受け継ぐ、とイエスさまは言われました。地を受け継ぐ、すなわちこの地にあって豊かに生きる、経済的にも、社会的にも幸いな中に生きる、ということです。経済的にも社会的にも確かな道を生きるためには、柔和などとは言っていられない、ときに人を押しのけ、戦いに勝利し、強硬な手段も必要である、とこの世は教えるのかもしれません。それくらいしっかりと自己主張をしなければ地を受け継ぐことはできないと言うのかもしれません。しかしイエスさまは、柔和な者こそ、この地にあって平安に、豊かに、生きる者となるのだ、と言われました。
柔和さ。それは単に優しい、とか、控えめである、ということ以上に、神さまにゆだねて生きることで生まれてくるものでしょう。神さまにゆだねて生きるからこそ生まれる芯の強さ、ということもあるでしょう。神さまを信頼しているからこそ、柔らかく生きることができる、ということもあるでしょう。
安息が生み出す柔和さ。神さまにゆだねることが生み出す柔和さ。私たちは、日曜日を安息とし、この日に安息を学んでいます。日曜日は主が復活された日を記念としていますので、復活の喜びが生み出す安息を学んでいます。それは罪の贖いと新しいいのちに生きる安息です。この安息のうちに、新しい一週間に出発します。