静まりの時 2022年6月15日(水)
レビ25・13~17
「このヨベルの年には、あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰る。
もしあなたがたが、同胞に土地を売ったり同胞から買ったりするときは、互いに損失を与えないようにしなさい。ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの同胞から買い、収穫年数にしたがって相手もあなたに売る。年数が多ければ、それに応じてあなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じてその買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。
あなたがたはそれぞれ同胞に損失を与えてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、主だからである。」
(レビ25・13~17、新改訳2017)
ヨベルの年は「自分の所有地に帰る」年です。エジプトを出発し約束の地に入ったイスラエルは、それぞれの部族に土地を分割しました。聖書に「嗣業の地」(士師2・6、新改訳では「相続する地」)という言葉が出てきますが、これは神さまから与えられたものであって、人間がその都合によって売り買いすることの出来ないものである、とイスラエルは教えられたということでしょう。しかし実情はさまざまな事情の中で所有地を離れることになったようです。ヨベルの年には、それらをチャラにしたということです。
無償で、所有地に帰ったのかというとどうもそうではないようです。実際には「同胞に土地を売ったり同胞から買ったり」することになったようです。その場合、土地の値段ではなく、その土地が生み出す産物の値段として売り買いするようにと神さまは言われました。
今日の土地の値段はどのように決められているでしょうか。面積によって値段が変わっているようにも思えます。しかし同じ1坪でも、地域によって値段が違います。それはその土地の「価値」が違うということでしょう。「価値」というのは、農作物というわけではありませんが、ある意味でその土地が生み出すもの、すなわち「収穫の回数」によって売り買いしていることになっているのかもしれません。
このような手続きの主旨は「同胞に損失を与えてはならない」ということであり、その理念は「あなたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、主だからである」ということでしょう。同胞に損失を与える行為は、神さまを畏れていない、神さまを神さまとしていないことである、というのです。神さまを畏れているならば、おのずと同胞に損失を与えることをしない、同胞への愛に生きる者となるのだ、というのです。ここにも神を愛することと、隣人を愛することが一つになる道が示されているように思います。
隣人に損失を与えてはならない、という言葉を守るためには、神さまへの畏れが必要なのです。神さまを畏れる、大切にする、愛するので、隣人を大切にする、愛するのです。また隣人を大切にする、愛することによって、神さまを畏れている、神さまを大切にしている、愛しているということが明らかになるのです。
少し極端にいうと、神さまへの愛なくして隣人を愛そうとすると、その愛は、愛にならない。結局その隣人を破壊していまうことになる、ということではないでしょうか。
神さまを愛するということは、神さまを主とするということです。神さまを愛さず、すなわち自分が主となってしまって、隣人を愛そうとすると、それは愛にならない、ということです。
すこし話が飛躍するかもしれませんが、『アダルト・チルドレン完全理解』(信田さよ子)という本の中に次のような言葉があります。
「『共依存』とは、簡単に言えば、愛情という名を借りて相手を支配することです。」
(43頁)
共依存がなければ、子どもを育てるエネルギーはなかなか生まれないものだということも書かれていて、共依存を全否定しているわけではありませんが、そこに起こっていることは「愛情という名を借りて相手を支配すること」である、というのです。結局、自分が主人になる、ということを実現するために愛をかたむけているということですね。神さまを主としないかぎり、私たちは大なり小なりこの共依存の中に生きることになる、ということではないでしょうか。これが行き辛さを与えている、ということだと思います。
この「自分が主となる、相手や世界を支配する」ということが、結局のところ聖書の語る罪なのだと思います。愛という名を借りて罪を犯している、ということでしょう。罪の中にあるのですから、結局それは良い実を結ぶことがありません。相手も、世界も、そして自分も破壊していまうのです。健やかな愛は、そこに神さまを主とする、すなわち自分が主人になる(最近ではマウントをとるというそうですが)ということをしない、ということで生まれるのだと思います。
愛、あるいは善に生きるということ。教会においては、たとえば奉仕をする、ということも、ひたすら神さまを主とする、ということが大切なのです。自分が主となること、その支配欲を満足するために、私たちはたやすく善に生きる、奉仕をする、愛に生きるということをやってしまいます。時には、聖書言葉を引っ張り出して、相手をやり込め、自分が主であることを発表することさえしてしまいます(笑)。
神さまを本当に主としているか、それとも神さまがわたしの主であると言いつつ、結局のところ自分が主となる、その支配欲を満足させるための生き方になってしまっているか。それを見極めるのはなかなか難しいことですが、やはりそれは「同胞に損失を与えてはならない」ということで、少し気づかせてくれるのではないかと思います。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」
(第一ヨハネ4・20,21)
「同胞」からの忠告や意見があったときに、それをどのように受け止めるか、で神さまを主としているか、それとも結局自分を主としているか、が見えてくるのですね。
昨日は久しぶりに本部にて、対面にて、牧羊会(牧師会)が行われました。ZOOMでも同時に行われましたので、ハイブリット、ということです。また従来よりも短い時間で行なわれました。やはりともに集まるということは、いいことですね。