静まりの時 2022年6月11日(土)
第一コリント2・6~10
「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
人の心に思い浮かんだことがないものを、
神は、神を愛する者たちに備えてくださった」
と書いてあるとおりでした。
それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」
(第一コリント2・6~10、新改訳2017)
パウロは「私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語る」といいました。この世の支配者たちは、この「神の知恵」を悟らなかったのでイエスさまを十字架につけてしまいました。私たちはこの「神の知恵」を悟らせていただきました。それでイエスさまを信じ救われ、イエスさまの十字架の福音を宣べ伝えます。
しかし私たちは果たしてこの「神の知恵」を本当に悟ったのでしょうか。知ったと言えるのでしょうか。この知恵を「この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした」と聖書は語りますが、支配者たちだけではなく、私たちも悟ることの出来ない者だったのではないでしょうか。ではどうして自分では悟ることの出来ないその「神の知恵」を悟る者になったのでしょうか。聖書は「神は私たちに御霊によって啓示してくださいました」と語ります。ご聖霊さまが教えてくださった、知ることができるようにしてくださった、ご聖霊さまが啓示してくださったのだ、というのです。もしご聖霊さまが教えてくださらなかったならば、神の知恵を知ることはなかったというのです。このご聖霊さまこそ「すべてのことを、神の深みさえも探られる」お方だからです。
さてご聖霊さまは神の深みさえも探られるお方なのですが、この神さまの知恵を啓示された私たちはどうなのでしょう。私たちも、神さまの深みを探り究めることができる者となるのでしょうか。またそのように神の深みを探り究める者となることを、神さまは期待しておられるのでしょうか。
パウロは救われる前には、自分は神さまのことなら何でも知っていると思っていたかもしれません。しかし救われることによって、自分は十字架しか知らない、十字架しか語らないことにしたと言います(2節)。救われるということで、自分は神さまのことを知らない者なのだ、ということが分かったと言うのではないでしょうか。
さまざまな宗教では、「知る」ということはその宗教の知識を得ることであり、どこか高みに上がっていくようなことが推奨されるのではないかと思います。宗教だけではありません。この世の学業、仕事、サークルなどでの文化活動、ボランティア、政治や経済の世界なども、知恵や知識を得て、有用な人間になっていく、優れた人材となっていく、ということが求められているでしょう。
しかし、それらに対して、イエスさまを信じる者は、知恵をお持ちのお方は神さまだけであり、その神さまの深みを極めるお方も神ご自身であるご聖霊さまだけである、ということを知らされました。救われるまでは、この世の生き方をしてきましたが、救われてからは「自分は知らない者」であるということを知らされ、その「自分は知らない」ということを究めていく者にされたのです。パウロは「成熟した人たちの間では知恵を語る」といいましたが、まことにキリスト者としての成熟は「自分は知らない者である」とのいうことを究めていく、そのような「謙遜」において明らかにされる、ということなのです。信仰の成長、成熟とは、謙遜、ということなのです。
イエスさまを信じる者は、神さまこそまことに知恵に富み、すべてをご存じで、なおかつすべてをご支配しておられるということに、安心して生きていきます。自分は知らない、ということに平安を持つことが出来るようになる、それが信仰の成熟であり、成熟した者たちの知恵なのです。教会はこのような成熟したキリスト者、すなわち謙遜なキリスト者によって守られ支えられています。