静まりの時 2022年6月1日(水)
ガラテヤ5・2~6
「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」
(ガラテヤ5・6、新改訳2017)
ガラテヤのキリスト者たちの問題は、イエスさまへの信仰とともに、プラスアルファを求めてしまった、ということでしょう。ユダヤ人キリスト者にとっては、それは律法であり割礼であった、ということです。律法そのものが問題なのではなく、律法を行わなければ救いが完璧にならないという律法主義が起こってしまった、ということです。イエスさまを信じるけれども、それに少し付け加えましょう、としたのです。イエスさまを信じて自由にされたキリスト者なのですが、このプラスアルファを求めることは、再び不自由、奴隷の霊の中に歩んでしまうことになるのだ、と語ったのです。
イエスさまを信じること。聖礼典としては洗礼と聖餐。信仰生活としては、イエスさまを礼拝すること。それ以外のことは、救いのためには必要条件ではない、ということです。もちろん、イエスさまへの信仰、聖礼典、礼拝が、いわゆる「行い」となってしまっていては、それも律法主義になるのだと思います。いずれもイエスさまの恵みによって、それらに与っている、ということが大切なことなのだと思います。
しかしこのように、信仰に付け加えるもの、プラスアルファは、人間は好きなのですね(笑)。そんなのどうでもいいのではないだろうか、と言いたくなるようなことが、キリスト教会の歴史を見るとたくさん出てきます。ときにそれらで戦争まで起こっています。ある先生は、会堂建設においてカーテンの色で分裂することができるのが教会です、と冗談交じりに語っておられました。真実をついているような冗談です。
このガラテヤ書はパウロが緊急性を感じて書かれた手紙であると言われます。ですからパウロは、ガラテヤのキリスト者となって歩む人びとに向かって、かなり厳しく語っているのです。キリスト者の自由を守るために、イエスさまの十字架への信仰以外はどうでもよいことである、ということを厳しく語ったのです。この厳しく語ったということは心に留まることです。「そんなんどうでもよいことではないか」と語るのならば、もう少し穏やかに優しく語ればよいものを、厳しく「そんなんどうでもよいことではないか」と語ったということなのです。つまり、律法主義に陥りやすい私たちが、キリスト者として自由に生きるためには、信仰による以外に救いはない、と厳しく語られなければならない。厳しく語っていただかなけばすぐに律法主義に陥ってしまう、あるいは陥らせてしまう、ということなのですね。
さてこんなに割礼について厳しく語ったパウロなのですが、使徒の働き16章3節を見ると、テモテに割礼を受けさせています。
「パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」(使徒16・3)
「ユダヤ人たちのために」、共同訳2018では「ユダヤ人の手前」割礼を施した、というのです。この辺が聖書のおもしろいところであり、またパウロという人の魅力だと思いますが、いかがでしょうか。普通公式の手紙で、これだけ割礼について厳しく語ったならば、ユダヤ人の手前、割礼を施すなど、できないですよね。人からは、あっちでこう言い、こっちでこう言う、とそしられることも予想されるのではないでしょうか。しかしパウロは、テモテに割礼を施したのです。私は、パウロは全き自由の中に歩んでいるのだと思いました。別の言葉で言うならば、自分の評判や自分の正しさ、などということは、もうどうでもよいと考えていたような気がしてきます。
「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」
まさに「愛によって働く信仰」を大切にした、そのことが、上記のような行動を生み出したのだと思います。
この6節は、新共同訳では
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
とありました。イエスさまにある、ということは、イエスさまに結ばれる、ということなのです。
ただこの新共同訳のなかで「愛によって働く信仰」が「愛の実践を伴う信仰」と訳されているのは、誤解を生み出すのではないかと想像しました。律法主義を戒めておきながら、結局は愛の実践、愛の行動、愛の行いが大事なのだ、と言われていると私たちは誤解してしまいます。ですから、新しい共同訳2018では、新改訳のように、「愛によって働く信仰」と訳し出されているようです。
私は第一コリント13章でもよく説明されるように、この「愛」という言葉を、「イエス・キリスト」に置き換えればよいのではないか、と思います。イエスさまこそ、愛そのもののお方なのですから。そのようにすると「イエスさまによって働く信仰」となりますから、文脈にぴったりの感じがします。
パウロは、イエスさまによって働く信仰によって、いつも自由に生きたのだと思います。私たちもこの自由の中に生かされていることを感謝したいと思います。