静まりの時 2022年6月2日(木)
第二サムエル22・31~51
「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」
(第二サムエル22・31、新改訳2017)
週報に掲載している「聖書愛読」は毎年日本聖書協会が発行している「聖書愛読こよみ」によるものです。聖書のいろいろな個所から、その週のテーマに従って聖句が選択されているようです。今週のテーマは「神の完全」。この神の完全に従って選ばれた今朝の聖句は、第二サムエル記22章31~51節でした。
この個所は共同訳2018では「ダビデの感謝の歌」と表題がつけられてます。また22章1節には、
「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。」
とあります。サウルの手から救い出された、という出来事は、ダビデの人生においては最初のころの出来事だったのではないでしょうか。
この第二サムエル記22章に続く23章では、その1節に
「これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。・・・」
と続き、第二サムエル記は24章で終わります。つまりこの22章の歌は、人生の晩年に歌われた歌と理解できるでしょうし、あるいは、ユダヤの人びとは、そのような位置づけで第二サムエル記に記し読み継いでいった、ということでしょう。
人生の最初にいただいた恵みの出来事を、人生の最後の段階で歌っている、ということです。それは生涯にわたって歌ってきた感謝の歌なのかもしれません。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103・2)のように、ダビデは、そしてユダヤの民は歌い続けたのだと思います。
人生にはさまざまな出来事が起こります。喜ぶべきこともあれば、逆に悲しむべきこと、つらいこともあります。起こることについてはコントロールすることが難しいのですが、どれに目を留めるか、は私の自由の中にあるはずです。否定的なことに目を留めることもできれば、そうではなく、喜ぶべきこと、感謝すべきことに目を留めることも、私の自由に任されているはずです。
ですから深く観想しながら、感謝すべきこと、に思いを巡らせたいと思います。
さてここに、神さまは、完全なお方である、神さまの歩まれる道は完全な道である、その神さまがお語りになる言葉は純粋、精錬された金のように不純物がない、どれをとっても自分を豊かに生かすもの、健やかに人生を歩ませるものである、とありました。そして主は、ご自身に身を避ける者をだれひとり例外なしに盾となって守って下さる、と。
神さまは完全なお方なので、私たちはいつもこの神さまにすべての事をゆだねて安心していることができる、というのです。感謝です。
あらためて私たちが委ねることの出来る「神さまの完全」とは何か、を考えておきましょう。
山上の説教の中でイエスさまは、
「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5・48)
と語られました。この節は、ユダヤの社会では隣人を愛し敵を憎めと教えられてきたかもしれないが、むしろ敵を愛し迫害する者のために祈れ、父なる神さまは、悪人も善人も同様に扱っておられるではないか、と語られた文脈の中での結論として登場しています。人間の考える完全は、敵と味方、善と悪、という二項対立的、二元論的な峻別によって成り立たせようとする完全だが、神さまの完全はそのような完全ではない、ということでしょう。そのような新しい完全の中に生きよ、とイエスさまは弟子たちを招かれたのだと思えてきます。
私たちはみな弱さを持っています。その弱さのままにイエスさまのところに行くことができる、それがイエスさまです。だから私たちの盾となり得るお方なのです。ダビデも、自分がサウルの手から守られたのは、自分の中に義があったからではない、ただ一方的な神さまのあわれみによるのだ、との思いから、この感謝の歌を歌ったのだと思います。だからバテシェバに対して犯した罪のときも、ダビデは悔い改めることができました。神さまがさばきの神であるとともに、ゆるしの神であることに信頼していたからでしょう。審きと赦し、義と愛が一つになったお方が私の神である、ということを信じていたということでしょう。
神さまの完全が、一分の隙もない、という完全ならば、神さまは私たちにとっては近寄りがたい存在でしかありません。しかし弱く間違いだらけ、失敗だらけの私を、受け止め赦し愛してくださる、そういう完全さをお持ちのお方なので、私たちは安心してこのお方のもとに逃れることができるのです。何一つ罪を犯すことがなかったにもかかわらず、罪びとといっしょに十字架につくことを受け入れられる完全なお方がイエスさまなので、このところにはいのちの泉があふれています。十字架は、まさに義と愛が一つとなった神さまの完全さの出来事なのです。
この神さまの完全さの中に、私たちも生きるようにと招かれています。