約束してくださった方を真実な方と

静まりの時 
ヘブル11:8~12
2022年5月27日

「・・・堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。・・・彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
(ヘブル11・10~11、新改訳2017)

 今日も、上にあるものを待ち望み、神さまのご真実に生かされましょう。

「約束してくださった方を真実な方と考えたからです」は、共同訳2018では「約束してくださった方が真実な方であると、信じたからです」。
 原文的には「考えた」がふさわしいのかもしれませんが、文脈からは「信じた」がふさわしいように思います。
 「考える」というのは、どこか試験管の中の物質についてどう考えるか、目に映る現象に対してどう考察するか、という印象を受けます。それに対して「信じる」というのは、やはり人格を持った存在に対する言葉ではないかと思わされます。ここでは科学的、あるいは客観的な判断が問われているのではなく、自分はどう考えるか、ということが問われているのです。誰が何と言っても、自分はどう思うのか・・・。アブラハムは、神さまはご真実なお方だ、と考えたのですが、それはもう「考える」という言葉では足りなくて、信じる、という言葉で言い表すことでないと、言い表せないほどに強い気持ちなのだと思います。
 また「考える」にはどこか自分の立ち位置を上にしているような印象を受けますが、「信じる」という言葉の中には、神さまの下にひざまずいていることを想像させます。

 ヘブル11章は、協会訳系では表題に「信仰」とついています。信仰とは、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望む」こと。また「約束してくださった方を真実な方」と信じること。私たちが生きる世界はあやふやなところがありますが、待ち望んでいる都、上にある都、永遠の国は、堅い基礎の上に建てられています。また私たちは、神さまを信じると言ってもどこか不真実があるものですが、神さまご自身は真実なお方です。

 この「真実」とは、ギリシャ語で「ピストス」。語源を同じにする言葉に「ピスティス」というのがありますが、こちらは「信仰」と訳され、この「ピストス」にも同じ意味があります。
 神さまの真実。それは神さまの信仰、とも言えるのでしょう。神さまは何を信仰しておられるのか、何を信じておられるのか。そう考えるとちょっと不思議な感じがしますが、それは私たち一人ひとりのことなのではないでしょうか。
 神さまのご真実。それは私たち不真実な者に対して、どこまでも真実をかたむけてくださる、信じていてくださる、信頼してくださる。その神さまの真実に私たちは支えられているのです。

 昨日は、二か月に一度の診察日でした。引き続き良好。主治医からは「もう本調子ですね」の言葉もいただきました。診察の前に聞こうと思っていることを、いつも忘れてしまうのですが、そんな時に後ろに控えている妻が口出しをしてくれます。
 「階段を上がってもいいですか」。これは太郎坊さんを登ってもいいですか、という意味を込めていたのですが、主治医からは「三階ぐらいは大丈夫でしょう。四階というと、私もしんどくなりますから・・・」とご自分の体力の話がはじまりかけそうな・・・。
 「以前のように生活習慣病健診などは受けた方がいいでしょうか」。「ぜひ受けてください。ここではがん検診とかないですからね・・・」。
 「時々体重を測ることや血圧を測ることを忘れてしまうのですが」。「良くなっている証拠ですね。まあ週に3~4回でいいですよ」。とこんな調子でした。
 ひたすら生かされていることに感謝です。