アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです

静まりの時 2022年5月26日(木)
ヨハネ8・48~59

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです。』」
(ヨハネ8・58、新改訳2017)

 「わたしはある」とは出エジプト記3章において神さまご自身が語られた神さまのお名前のことです。

「モーセは神に言った。『今、私がイスラエルの子らのところに行き、「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。』
神はモーセに仰せられた。『わたしは「わたしはある」という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。「わたしはある」という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。』」
(出エジプト記3・13,14)

 ユダヤの人たちはこの「わたしはある」が神さまのお名前であることを知っていますから、ここでイエスさまは、自分は神である、と言われたことになりました。ユダヤ人たちは我慢ならずイエスさまを殺そうとします。しかしイエスさまは身を隠され、神殿から出て行かれました。
 イエスさまが、ご自分を神と等しくされたこと、神自身であることを明らかにされたこと。これがユダヤ人たちの反感を買いました。そうしてイエスさまは十字架につかれました。十字架に架かられることとなったのは、自分自身を神であると言われたからなのです。

 イエスさまは、ここでアブラハムが生まれる前から、自分自身が神である、と言われました。すなわち天と地を創造したのはわたしである、アブラハムをカルデヤのウルの地から導き出したのはわたしである、アブラハムをその信仰によって義と認めたのはわたしであると言われたのです。

 今日は昇天日です。すこし主イエスさまの昇天について思いを巡らせましょう。『雪ノ下カテキズム』よりの引用です。

問137    神とキリストが共におられる天とはどこなのでしょう。この地上とどのような関わりがあるのでしょう。

答    天とは、物理的な空間のことではありません。天は象徴的な表現です。聖書は、また「上」という言葉によっても、これを言い表しました。人間の言葉で言い表すことのできない超越の世界です。私どもとは絶対的に隔たっている、神の超越的な存在があるところ、そこが天です。永遠の世界です。しかも私どもが住む地上の世界と絶対的に隔絶して無関係のままというのではありません。主イエス・キリストがそこから来られ、そこへと赴かれたのですから、私どもは、永遠の神がおられる超越・永遠の世界と深い関わりを持ち続けるのです。私どもは、主イエス・キリストが赴かれた永遠の父のみもとに、私どものすみかが既に整えられていることを信じ、自分のいのちもまたそこにあることを望みとすることができるのです。復活の信仰に生きる者は、天への信仰に生きるのです。地上にあって、この「上にあるもの」を慕い求めて生きることが許されているのです。私どもが着ることを許される新しい存在の新しさは、まさしく、この天に連なる望みにあるのです。

問138    主イエスの昇天をもって、その救いのわざは完成し、その救いの歴史は終わりに至ったと言ってよいのですか。

答    いいえ、違います。聖書の信仰によれば、主の救いのわざは、主の再臨をもって完成されます。現在の主の支配は、そこに至るまでの神の救いの歴史を進めるためのものなのです。主もまた最後の勝利を待望されるのです。

〔使徒1・3~11、5・29~32、7・54~60、ローマ8・34、ヘブル1・1~4、7・24~25,10・12~14、12・1~3、コロサイ3・1~11、ヨハネ14・1~7)〕

(加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』、教文館、1990、より)

 イエスさまは、世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。イエスさまは、天において私たちを日々とりなしていてくださいます。イエスさまは、再び来てくださり最終的な完成をなしてくださいます。私たちは、上にあるものを求めつつ、再臨を待ち望み、今日の一日の業にいそしみます。

「今か今かと御足の音に 耳を澄ましてこの身は待てり
 来り給え贖い主よ 慕いまつる栄えの主よ」
(新聖歌150「旅人なるこの身にとりて」4節)