神がアブラハムを試練にあわせられた

静まりの時 2022年5月23日(月)
創世記22・1~12

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は『はい、ここにおります』と答えた。」
(創世記22・1~、新改訳2017)

 神さまはアブラハムに、ひとり子イサクを、全焼のささげ物として献げよ、と言われました。アブラハムは、その言葉に忠実に従いました。アブラハムがイサクをささげようとしたその瞬間、神さまのストップが入りました。

「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」(12)

 さて詳しく見ていきましょう。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた」。(1)

 「試練」というのはいったい何でしょうか。試練という言葉を、私たちはどのようなときに使うでしょうか。病気になった、困難、苦しみに出会った、そういう時に「試練にあった」という言葉を使うかもしれません。
 ここでアブラハムが受けた試練は「神が・・・あわせられた」のだと語ります。病気、困難や苦しみ、それらがそのまま試練というわけではありません。神さまがあわせられたのだ、との信仰的理解が生まれてはじめて「試練」と呼ぶことの出来るものとなるのです。そして試練と呼び始めたとき、すなわちその背後に神さまを認めたとき、それは決して失望に終わることがありません。
 人生の苦しみに出会ったとき、それをだれかの責任にしたり、また自分自身の足りなさにうずくまっているときには、それはまだ試練ではないのです。神さまがこのように導かれたのだ、神さまがお与えになったのだ、と顔を上げ始めるとき、もうそこに希望が輝き始めているのです。

「神は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。』」(2)

 神さまは、アブラハムに、ひとり子イサクを献げよと言われました。いったいどういうことでしょう。イサクとは、約束の子だったのではないでしょうか。大いなる国民とするとの神さまの御約束の末に生まれた子だったのではないでしょうか。アブラハムが大いなる国民になるためには、必要不可欠の存在だったのではないでしょうか。あれほどほかの子ではいけないと言われたのは神さまだったのではないでしょうか。にもかかわらず、その神さまが、イサクを献げよと言われたのです。不思議です、不可解です、理不尽です、理屈にかなっていません。
 この従順は、自分にとって都合の悪いことだけれども従おう、というのではありません。これに従ったら神さまの御約束が実現しなくなるかもしれない、と思える事態にもかかわらず、それに従え、と言われた、ということなのです。アブラハムはいくらでも抗弁できるはずです。
 しかしアブラハムは一言も返すことなく、神さまの言葉のままにイサクを献げようとします。ここに奇跡が起こっています。従順の奇跡が起こっています。私たちの信仰生活の祝福は、この奇跡が起こるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

「アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。『お父さん。』
 彼は『何だ。わが子よ』と答えた。
 イサクは尋ねた。『火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。』
 アブラハムは答えた。『わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。』こうして二人は一緒に進んで行った。」(6~8)

 アブラハムは、ともの若い者に「私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」といい、またここで「神ご自身が・・・備えてくださる」と語っていますが、息子が帰ってこないことはアブラハムは承知しています。問いかける息子イサクに、神さまが備えてくださる、と語るのですが、それが空しい言葉であることを、この時、アブラハムは誰よりも分かっていたのではないでしょうか。
(すでにこの時神さまがイサクの代わりに供え物を用意していてくださり、再び息子と帰宅することをアブラハムは確信していたのだ、という人もいるかもしれません。しかしそれでは、こののちアブラハムがイサクを献げる行為はすべて茶番となっています。まるで復活を知っておられた上でのイエスさまの十字架の苦しみは、その程度のものですよ、と言っているようなものではないかとも思います。ですから、私はこの時のアブラハムとイサクの心中は察するに余りあるものがある、と思うのですがいかがでしょうか。ましてやイエスさまの十字架の苦しみは私たちにははかり知ることの出来ないものなのだと思います(新聖歌110「都の外なる」2節)。)

「神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた」(9)

 この時イサクは薪をしょっての長旅が可能なのですから10代半ばだったのではないかと言われます。青年といってもよい時期にさしかかっていたイサクが、だまって父に縛られ、薪の上に乗せられるままになっています。私だったら、死に物狂いで逃げ回ります(笑)。ここにまた奇跡が起こっています。従順という奇蹟が起こっています。
 神さまに従順に従うアブラハム。そのアブラハムに従順に従うイサク。神さまへの従順は、実際に目に見える人への従順によって明らかになります。目に見える人に従順になれない者が、目に見えない神さまに従順になることはありません。もし神さまへの従順に生きようとの願いが、ともに生きる人びとに従うことを拒否する言い訳になっているとすれば、それは神さまに従順なのではなく、自分の願望の奴隷になっているだけではないでしょうか。そこには神さまへの従順はありません。

「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
 そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。『アブラハム、アブラハム。』
 彼は答えた。『はい、ここにおります。』
  御使いは言われた。『その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。』」(10~12)

 この「試練」で神さまがアブラハムにお求めになったのは「神さまへの恐れ(畏れ)」でした。どこまでも神さまに従順であるかどうか、神さまを畏れるかどうか、を試されたのです。

 神さまは私たちに信仰をお求めになります。信仰がなければ神さまに喜ばれることができません(ヘブル11・6)。では、神さまが私たちにお求めになる信仰とは一体何でしょうか。聖書への知識でしょうか。数多くの奉仕でしょうか。愛の施しでしょうか。祈りの深さでしょうか。
 神さまがお求めになる信仰とは、ただ一つ神さまへの畏れ、神さまへの従順なのです。

 アダムとエバ以降、神さまに従順に生きることの出来なかった私たちのために、イエスさまは従順の道をまっとうしてくださいました。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2・6~8)

「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」(ヘブル2・18)

 誰よりも大きい試練を受けて苦しんでくださったイエスさまは、今日も私たちとともにいて支え励まし導いてくださいます。そこで出会う試練の背後にはすべて神さまがいてくださいます。試練ととらえ始めたとき、希望の道が始まります。従順を学ぶ道の先に希望が輝いています。
 イエスさまの御手に従順に、そしてともに生きる人びとともに謙遜に歩んでいきたいと思います。失われた羊であった私たちでしたが、今は救われてイエスさまの肩に乗せていただいています。安んじてればよいのです。じたばたする必要はありません。じたばたすれば、再びイエスさまの肩から落っこちてしまいます。もちろん落ちることなくイエスさまはしっかり支えていてくださいます。そうであれば、せめて支えられやすいようにイエスさまの歩調を体に感じながら従順にあろうとするのが肝要ですね。