静まりの時 2022年5月24日(火)
ローマ4・1~12
「彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。」
(ローマ4・9~11、新改訳2017)
創世記15章に
「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15・6)
と記されています。そのあとの17章において
「アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。」(創世記17・26)
と記されていますので、時系列でみると、明らかに「信仰→割礼」なのです。しかしいつの間にか「割礼→信仰」になってしまい、割礼の有無が、信仰の土台のようになったのです。一般的に、信仰に生き始めてさまざまな教えや戒律を学ぶことによって、それまでの自堕落な生活から、倫理的、道徳的な生活になっていく、と想像されます。ある程度は当たっていると思いますが、律法主義ということに関しては、どうも当てはまらないのではないかと思わされます。
聖書が語る救いは決して倫理道徳を軽く考えることではありません。イエスさまは山上の説教の中で
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」(マタイ5・17)
と言われています。ですから律法に生きる(生かされる)ということは、キリスト者の大きなテーマなのです。
それに対して「律法主義」というのは、行いによる救い、のことです。律法に生きる(生かされる)ということと律法主義。この二つは似ているようで、ずいぶん違うものです。
パウロはローマ人への手紙の中で、律法主義ではなく、律法に生かされる幸いを明らかにしようとしています。そのために、律法主義の問題を厳しく指摘しています。
ユダヤの信仰が、もともと「信仰→割礼」であり、そのことが聖書にしっかりと書かれているのにも関わらず、いつの間にか「割礼→信仰」となってしまいました。それは、人間がまるでDNAの中に組み込まれているかのような生まれつきの律法主義者だったからなのだと思います。救われるということは、この律法主義から解放されて、律法に生き、生かされる者となることなのです。
私たちの信仰生活や教会生活、また礼拝生活が、律法主義ではなく、つねに律法に生きる(生かされる)こととなるために、その土台に「信仰→割礼」の順序が見失われないことが大切でしょう。それは、救いが神さまの一方的な恵みによるものであることを見失わない、ということです。信仰生活、教会生活、礼拝生活のすべてが、神さまの一方的な恵みによって成り立っていることを確かにすることが大切でしょう。
たとえば、信仰生活において、聖書を読む、祈りをする、隣人への愛をかたむける、ということは、それによって救われるのではありません。一方的な神さまの恵みの中に生かされているので、そのような信仰生活に生きるのです。教会生活においても、さまざまな奉仕をする、ということも、それによって救いを実現するのではありません。礼拝のさまざまなプログラムも、ただ神さまの一方的な恵みをいただいたことへの喜びによってなすことごとなのです。
もちろんイエスさまが喜んでくださる道を歩みたいとの願いから、信仰生活、教会生活、礼拝生活も、できるだけ整えられたものとなるように、努力をしたり、反省したりということも大切なことでしょう。そのために互いに研鑽あったり意見を交わしたりすることも大切でしょう。しかしそれは、救われるための基準を満たしているかどうか、ということでは全くありませんから、つねに救われた喜びに満たされていることが最も大切なことです。隣人を愛するということも、愛することによって自分が救われる、ということではありません。もしそうなってしまったらそれは共依存の関係になってしまっているということではないでしょうか。もしそうであるならばそれは決して真実に愛することにならず、結果的に相手も自分も滅ぼしてしまうことになるかもしれません。
ただ救われた喜びのままに、隣人への愛をかたむける、のですから、たとえ相手が思うように愛を返してくれなくても、また自分の願ったような形に愛が実現しなくても、そこにも神さまのみこころがあるのだと信じて、ただ喜んでいればいいのだと思います。
この喜びの中に生きるために、ただ一つ必要なことは信仰、「信じること」だけである、とパウロは語りました。竹森先生の講解説教の一節を引用したいと思います。
「・・・ただ一つのことは、その神の御業(十字架のことです。(かっこの言葉は私))を信ずるということだけであります。
ただ一つの条件と申しましたが、これが、条件になるのでしょうか。働きはなくても、行ないはなくでも、不信心な者をも、不信心ではない者のように、義人のように扱って下さるお方の恵みを受けるのは、ただ、そういうお方であることを信ずる以外には、何もないではありませんか。そのお方にすべてをゆだねるということ以外には、何もないではありませんか。その恵みを信じて受けいれる以外に何がありましょう。罪を犯した者が、無条件にそれをゆるしていただけるということより大きな恵みはないでしょう。これが恵みでなくて何でしょうか。」
(竹森満佐一、『ローマ書講解説教2』、新教出版社、1965年、36頁)
私たちは、「信じる」ということさえ、いつの間にか、その律法主義者のDNAによって「行ない」にしてしまいます。信じるということは、結局のところ「ゆだねる」ということ、「受けいれる」ということ、自分の手から放してしまい神さまの御手の中にお任せする、ことなのです。