静まりの時 2022年5月18日(水)
ルカ15・1~7
「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(ルカ15・1~7、新改訳2017)
取税人や罪びとといった人たちを受け入れるイエスさまのお姿をみて、パリサイ人や律法学者たち、すなわち律法に、聖書に忠実に生きようとした人たちが文句を言いました。そこでイエスさまは、99匹と1匹の羊のたとえ話をお話しくださいました。
三浦綾子さんの小説を原作とした『海嶺』という映画があります。その中でジョニー・キャッシュというアメリカのシンガーが、このたとえをモチーフにした賛美歌『九十九匹の羊は』を歌っていました。ジョニー・キャッシュを知らなかったのですが、ある人は、日本でいうと三波春夫みたいな人です、といっておられました。国民的な歌手ということでしょうか。この賛美歌、聖歌では429番、新聖歌では217番に入っています。感動的な賛美です。
心に留まるのは「その人は九十九匹を野に残して」という言葉でしょう。99匹を野原に残すならば、そこに狼に襲われる危険が予測されます。そのような危険を冒してまでも、1匹を探し求めようとする羊飼いの姿に、神さまの愛が語られているのです。これは決して99匹はどうでもよいと言っているわけではありません。99匹も大切な1匹1匹なのです。神さまはすべての羊に対してそのように対応してくださる。これはまさに人間業では不可能な愛なのです。
人間の世界では、99匹と1匹を秤にかけると99匹が重たいのです。沖縄基地問題をはじめさまざまな問題において、少数者と日本全体を秤にかけて、少数者の犠牲に目をつむることが理性的な政治的判断のように語られているような現実があります。それが私たちの世界の常識なのかもしれません。しかしイエスさまの常識は、それとは全く別の次元にありました。
そのような愛で人間は愛されている。だからだれひとり失われてはいけない。ましてや取税人や罪びとたちも大切な1匹なのだ、とイエスさまは教えてくださいました。私たちはそんな愛で神さまに愛されているのです。さらには、このパリサイ人や律法学者たちも大切な1匹であることを語ろうとなさったのだと思います。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」(7)といわれているのですが、悔い改める必要のない人、正しい人などひとりもいません。
ですから教会は、みな罪びとの集まりなのです。あるいは自らが罪びとである、悔い改める必要のある者なのだ、との信仰的な前提の中に集められているのです。罪びとだったけれどもキリスト者になって以来罪を犯すことがなくなった、ということもありません。キリスト者といえども、罪を犯さない人はひとりもいないのです。ですから毎週の礼拝において、私たちは罪の告白をします。神さまのあわれみをひたすら希(こいねが)うのです。
その上で、あらためて罪の赦しと教会での信仰生活の在り方について少し考えてみましょう。
イエスさまは、姦淫の現場で捕らえられた女性に対して赦しを語られました。その言葉は
「イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』」(ヨハネ8・11)
ここに、神さまの赦しとは、「赦し」であって「許し」ではない、ということが明らかに語られています。イエスさまの語られた「赦し」は、これからは決して罪を犯さないという願いに生きる道をひらくものでした。それは「許し」、つまり、これからは罪を犯してもよいですよという許可を与えられたということではない、ということです。上記の「主よあわれんでください」と、神さまのあわれみを願う祈りは、この「これからは罪を犯さない」という願いをもって罪との闘いに生きようとしている、それを経験している者だけが祈れる祈りである、ということでしょう。
「私は罪人なのですよ、そんな私をイエスさまは赦してくださいました。ハレルヤ!」という言葉は信仰の言葉だと思いますが、この「赦し」を「許し」ととらえたとたんに開き直りになってしまい、キリスト教信仰の言葉ではなくなってしまいます。そこからは、主よあわれんでください、という祈りは生まれてきません。
さて聖霊降臨(使徒2章)によって生まれた教会が前進していく中で、教会はいわゆる組織化されてきます。使徒6章では、配給の問題から執事(役員)が生まれます。その時の執事選出の基準は「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」です。この言葉から推測されるのは、教会には「評判のよくない人」も自由に集えた、ということです(笑)。それは上記のように罪びとの集まりなのですから、当然のことでしょう。しかし執事に選ばれるということにおいては、選出規準を、教会は最初から持ったということです。
これは時代が進むとさらに細かい規定が生まれることになります。
第一テモテ3章を見ましょう。少し長いですが全文引用します。
「次のことばは真実です。『もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。』
ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。
また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。
同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。この人たちも、まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事として仕えさせなさい。この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。執事は一人の妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。」(第一テモテ3章1~13節)
評判のよくない人も自由に集える教会なのですが、このように「監督」や「執事」には厳しい基準を設けるようになりました。監督は今でいう牧師や伝道者、長老、また執事は役員と考えることができるでしょう。
警察官が飲酒運転をした、学校の先生が万引きをした、政治家が脱税をした、ということが、ことさら大きく取り上げられ、刑事罰、行政罰、民事罰だけでなく、社会的な罰といえるような中に置かれる理由も、この聖書の記述から想像できるのかもしれません。共同体において、模範とされてしまう、という人物には、ことさらに高い倫理的、道徳的な基準を持ったということなのでしょう。
4月上旬に、団体牧師会でハラスメントのセミナーが行われ、ここ20年でしょうか、有名な牧師、いわゆる「良い」奉仕をされていた牧師による女性問題、セクシャルハラスメント、パワーハラスメントなどの事件について考察し学びました。自戒してもし尽くすことのないテーマであると思いました。
さて、それではいったい誰が、牧師や伝道者、執事になることができるでしょう。おそらくだれひとりなることができない、ということが、もしかしたら真実かもしれません。そうであれば、もし牧師や伝道者、執事になったならば、少なくとも、へりくだって、主をあわれんでください、との祈りに、より一層深く生きる者でなければならないということになります。謙遜に生きることが、監督や執事の最大のテーマなのです。自分が誰よりも霊的に高い、とか、何ものかになったかのような高慢な気持ちになったり、誰かを教えることに秘かな支配欲を満足するようなことでは、その資格が失われているということです。そしてそれはその個人の問題だけで終わることなく、その共同体に決定的な問題を起こすことになります。
私の願いは、はやく前に立つことから解放され一信徒として礼拝堂の隅でひっそりと礼拝をささげ祈りの生活を送ることですなのですが(笑)。