静まりの時 2022年5月16日(月)
マルコ9・38~41
「ヨハネがイエスに言った。『先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。』しかし、イエスは言われた。『やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。』」
(マルコ9・、新改訳2017)
イエスさまの12弟子のひとりヨハネ。この人物については別の個所で
「ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」(マルコ3・17)
という記述があります。この個所からヨハネというのはたいそう気性の荒い人物だったように想像されます。
そのヨハネが、イエスさまの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとし、なぜなら、自分たちについてこなかったからだ、と言いました。
新改訳聖書第3版では
「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」(マルコ9・38、新改訳第3版)
ヨハネならやりそうなことかもしれません。おおよその人は、眉をひそめて素通りするところを、ヨハネは出来ないのです。
するとイエスさまは言われました。
「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」(39,40)
あまりありませんが、ごくたまにホテルからの依頼で牧師が結婚式をすることがあります。これをどうとらえるべきだろうか、と牧師会で議論になったことがありました。信仰のない新郎新婦が、こともあろうに神さまを利用して、その場限りの誓いをするようなことに、牧師は加担すべきではない、と言われる先生もおられました。なるほど確かにそういわれればそうです。神さまの前に誓いをするのに、その神さまを知らない、ということで果たしてその誓いが意味のあることになるのだろうか、と。
誓いの文章を未信者用の文言に変えればよいと言わる先生もおられました。しかしそれならばわざわざ牧師が出て行ってしなくても、ホテルの方か、司会者業の方がされればよいことにもなります。
しかし今朝の個所を見ると、イエスさまは微笑みながら「やめさせてはいけませんよ」と言われるような気がしてきます。
かつて神学校で学んだ恩師から、冠婚葬祭はとても大切なことである、と言われたことがありました。それまで、宣教の大切さの前に、冠婚葬祭のような儀式的なことは少し軽く考える傾向が自分の中にあったような気がします。しかしこの言葉を聞いてからは冠婚葬祭を大切に考えるようになりました。実際、野に出て牧会が始まると、冠婚葬祭こそ牧師の重要課題であることを感じるようになり今に至っています。結婚式でもお葬式でも、普段教会に集うことがないであろうという方に聖書の言葉を語ることになります。ありがたいことです。
今まで司式させていただいた結婚式の中で、袈裟衣で参加した方がおられました。こちらも少しやりにくいところがありましたが、後でその方が、いやすみません、これが僧侶の正装なので本当に申し訳ありません、と言って下さったことがありました。またあるとき、故人の親戚筋に天台宗のかつての座主をした人がいるという方の葬儀をしたことがありました。座主というのは天台宗のトップです。ローマ・カトリック教会の法王みたいなものですね。これは緊張しました。そのご家庭が先祖代々お世話になってきたというお寺のお坊さんが、葬儀の直前に、数人の役僧を引き連れてこられ、ひとしきりお経をあげ、焼香をして帰って行かれました。その後始まったキリスト教葬儀の参列者は、そのような方のゆかりの方がぎっしり。ビビりますね~。しかし牧師は、神さまの愛、罪の赦し、天国への希望を語ります。どこでも語ることになります。
さてそれはそうとして、上記のような牧羊会の議論の後、それぞれに確信をいただくことになりました。私は、このイエスさまのお言葉から、どのような事情であっても、時間が許される限り依頼されることは引き受けようと考えるようになりました。それで請われるままにホテルからの依頼の司式をしたことが何度かあります。葬儀も、これは一度でしたが、葬儀屋さんから電話があり、キリスト教式でしてほしいという方がおれるがお願いできないか、ということもあり、引き受けました。葬儀は待ったなしです。
毎回語ることは同じです。神さまの愛、イエスさまの十字架、愛に生きることが家庭を築くこと、と励ましを語ります。だいたい、結婚式では新郎新婦は、もう上気しているので何を言っても目を輝かせて聞いています(笑)。葬儀では命の大切さ、見えないものに目を向けること、天国への希望、を語ります。悲しみの中にも、希望が語られます。
本人が神さまを知らないのに、その神さまに向かっての誓いが成り立つだろうか、ということについてですが、私は本人が知っているか知らないかにかかわらず、神さまはご存在下さって祝福してくださるお方であることを知っています。人間が認めたところにはおられて、認めないところにはおられない、と考えるのは人間の作った神ですね。
ですから私は、誓いの時には、心の中で「あなたがたは十分に分かっていないかもしれないけれども、この神さまは本当に天と地を造られたお方で、いまここに、この結婚式に臨んでおられて、あなたがたの誓いにだれよりも真実な御心を持って耳を傾けておられる。この神さまは人間のいのちを、そしてすべてをご支配されている、生き死にもこのお方にすべてかかっている、その神さまの前にあなたがたは誓いをするのだ。その神さまを十分に知ったならば、もしかすると、誓いなどできなくなるかもしれない、しかしこのお方は、愛なるお方で、あなたがたを祝福しようとここに臨んでいてくださる、あなたがたは分かっていないかもしれないけれども、私はそれを知っている。だから今後私があなたがたに会うことはないかもしれないけれども、ひたすらこの時あなたがたの祝福を私は祈っている・・・」とぶつくさと思いながら誓いへの答えを聞くことにしています(笑)。
「あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」(41)
これは、ほんとうにもったいない言葉です。牧師はもとより、イエスさまを信じるすべての人が、この祝福の中に生かされているのです。水一杯というのは、わずかの施し、ということでしょう。すべての人の祝福が、キリスト者から注がれる、ということです。この世界を敵か味方かで分けるのではなく、すべての人が、キリスト者とのかかわりの中で、祝福を受けるようになる、ということなのです。キリスト者は、自らが祝福の基であることに胸を張って、人びとからの施しを受ければよい、と言われているのです。もちろん高慢になってはいけませんが、健やかな自信を持っていいのだと思います。
むかしあるご高齢の姉妹がおられました。その方は、いつも家庭を開放して人びとを招き、また牧師を歓迎してくださる方でした。その方があるとき信仰の本を注文されたのでご持参しました。その際、私はいつもお世話になっているので、これはプレゼントさせていただきたいと申し出ました。すると、先生、私はこうして天国に宝を積んでいるのです、先生に支払っていただいたらせっかく積んでいる天国の宝が少なくなってしまいますから、ありがたいお申し出ですが、ご辞退させてください、と丁重に断ってくださいました。余計なことせんといてくれ、という意味だったと思います(笑)。それであらためて、その方が人びとを歓迎し、また牧師を歓迎してくださることの意味を考えさせられました。けっしてその方は、自己中心的に自らの宝を天に積み上げようとしておられているわけではありません。それよりも、私自身が、その方にとって祝福の注ぎ口であったということ、そのことを見失って、何か自分が尊いものになったような気分で、その方の歓迎を受けてしまっていたことを反省しました。そのかたはしっかりと神さまを見ておられたのに、私は「人間」しか見えていなかったのだなと思わされたのです。
胸を張って、人びとからの親切を「ありがとうございます」と受け入れつつ、それが、自分が何者かになったようなことで受けるのではなく、神さまの祝福の注ぎ口とされているのだ、と感謝しつつ受け入れていければいいかな、と思うようになりました。下手に遠慮すると、その方の祝福の道を阻んでしまうことになるのです。