静まりの時 2022年5月14日(土)
ヨハネ2・13~22
「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」
(ヨハネ2・22、新改訳2017)
弟子たちは、イエスさまが語られたことばを、イエスさまが復活された時に思い起こし「聖書とイエスが言われたことば」とを信じた、と聖書は語ります。
この場合の「聖書」とは17節の「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い起こした」、つまり詩篇61編を思い起こした、そして、イエスさまがこの時言われた言葉を思い起こし信じた、ということでしょう。イエスさまは、宮きよめというちょっと激しい行動をされるほどにとても熱心なお方なのだ、私たちの救いのためにだれよりも熱心なお方なのだ、と分かったということでしょう。
聖書が分かるということ。イエスさまが言われた言葉を信じるということ。それがいつ起こるのか。それは復活の主との出会いによる、ということでしょう。また「ご自分のからだ」が「教会」のことである、との理解が生まれるということは、すでに教会生活が始まっている中でのことである、とも理解できるのではないでしょうか。
「信じる」ということは、自分の自主的、自律的な行為ではありますが、やはり神業なのです。神さまがそのようにしてくださる、ということなのだと思います。
「啐啄」(そったく)という言葉があります。広辞苑によると「『啐』は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音、『啄』は母鶏が殻をかみ破ること」とあります。禅では、啐啄同時、と言われ、師と弟子のはたらきが合致すること、とのこと。
私が信じる、ということは、その瞬間に、すべての時をご支配されているイエスさまが、私の心を動かしていてくださる、ということなのです。
今は分からなくても、のちには分かるようになる、神さまがその時を定めていてくださる、ということに信頼して、私たちは待ち望むということが大切なのだと思います。また信じた、ということの中に神さまの働きがあることを信じて安心していればいいのだと思います。
今週の初めに私の携帯が鳴り、かねてより闘病中の彦根教会の方の召天が知らされました。ご家族からは、葬儀は行わず、火葬場での短い祈りの時を持ってほしいとのこと。火葬後はその足で団体納骨堂に安置したいとのこと。彦根教会のことは、他の先生にすべておゆだねすることになったのですが、今しばらく葬儀だけは田中にということで、月曜日、火曜日はこの件で少しあわただしくしていました。団体納骨堂までの階段を上ることができるだろうかと、案じたのですがまったく大丈夫でした。
この召天者のご主人は、すでに教会には通われていたのですが、まだ洗礼を受けるには至っていません。今朝、教会の方からメールがあり、そのご主人が洗礼への思いを語って下さったとのこと。この方にとっての啐啄同時が起こっているのでしょうか。奥さまを失われた悲しみの深さは、傍で見ているのもつらいものがあります。神さまだけが与えることのできる慰めが豊かにあることを祈りたいと思います。