静まりの時 2022年5月13日(金)
ルカ4・16~21
「イエスは人々に向かって話し始められた。『あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。』」
(ルカ4・21、新改訳2017)
イエスさまはご自分がお育ちになられたガリラヤのナザレに行かれ、いつものように安息日に会堂に入り、朗読しようと立ち上がられました。すると預言者イザヤの書が手渡されました。イエスさまはその巻物の開いて一つの個所に目を留められます。それがイザヤ書61章でした。読み終えられると、巻物を係の方にお返しになり座られました。しかし会堂にいた全員がイエスさまに注目しています。きっと聖書を朗読されたイエスさまご自身に何かを感じたのでしょう。するとイエスさまが人びとに向かって話し始められました。
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
ここに聖書の言葉が実現した。長く待ち望んでいた聖書のことばが今日成就した。聖書を読んでいてもピンとこないことも多かったかもしれないけれども、今日ここに実現した、と言われたのです。
聖書を読んでもピンとこないことも多いのです。しかしイエスさまを見上げて、イエスさまを通して、イエスさまによって、聖書を読んでいくならば、ピンとくるようになるのです。聖書を読んでイエスさまへの信仰をいただくのですが、実は、イエスさまを信じて聖書を読むと、より深く分かるようになるのです。
人びとは驚き「この人はヨセフの子ではないか」と言います。そこでイエスさまはさらに彼らに語られます。説教をはじめらた、と言ってもよいと思います。23節から始まった説教は27節まで続きました。この説教を聴いた人びとの反応が28、29節に記されています。
「これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。」(ルカ4・28,29)
大変なことになりました。たとえば遣わされた教会おいて最初の説教をしたときに、その会衆が「みな憤りに満たされた」とすればどうでしょう。その人たちが「会堂からだけではなく、町からも追い出そうとした」「町が建っていた丘の崖の縁まで連行して、そこから突き落とそうとした」とすればどうでしょう。もう警察沙汰です。
イエスさまは最初から人びとの反感を買われました。その反感によって、やがて十字架への道へと向かわれることになります。
それにしてもイエスさまの語られた言葉の中で、一体何が彼らの反感を買ったのでしょうか。
預言者エリヤの時代、大飢饉が起こったとき、イスラエルに多くのやもめがいたけれども、エリヤが遣わされたのは「シドンのツァレファテにいた一人のやもめの女にだけ遣わされたこと。預言者エリシャの時代、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいたけれども、エリシャがきよめたのはシリア人ナアマンだけであったこと。
イエスさまは、神の国イスラエルではなく、異邦人を祝福される神さまの御姿を話されました。そのことが、聞く者たちの反感を買ったのでしょう。自分たちを喜ばせる言葉ではなく、敵対する人たちの祝福を語ることに我慢ならなかったのでしょう。耳障りのよい言葉ではなく、自分たちの心が揺さぶられる言葉に腹を立てたのでしょう。それにしても、殺意にまで発展する怒りがここに起こったとは・・・。
聖書の言葉の説き明かしである説教は、恵みに満ち、聞く人びとを慰め励まし、力強く立たせるものであってほしいと願いつつ準備をしています。しかしそれは会衆の気に入る言葉、会衆におもねるような言葉を語るということではありません。この辺が、説教者のチャレンジであり、また誘惑でもあるのです。もちろん人の心を逆なでするような言葉をわざわざ語る必要はありません。淡々と聖書の言葉を語ればよいのだと思います。ただそれが必ずしも人びとの気に入ることになるわけではない、ということを知っていればよいのだと思います。
急性心筋梗塞で救急搬送されたとき、救急車の中で、また搬送された集中治療室、手術室で、胸の激痛の中、一刻も早く処置をしていただきたいと願っていました。真夏であるにもかかわらず、からだ中に寒さを覚え、全身が震え始めていました。いろいろな管につながれ、左手首、右足付け根の二カ所からカテーテルが挿入され、やがて「いま血管のつまりが取れて血液が通りましたよ」と耳元でささやいてくださり、まもなく激痛がやわらぎ始めました。ほっとしました。血管に管を入れて、カメラを見ながら、レントゲンを見ながら処置をされるなどと考えると、恐ろしいことですが、激痛は、そんな不安を感じさせませんでした。
一週間後、二回目のカテーテル処置。今度は、左手首の別の個所からカテーテルが通されます。今回は胸の激痛はありません。しかしそれがかえってカテーテル処置の状況がつぶさに分かることになり、なんだかしんどいのです。当初2時間と言われていた処置は1時間で済んだのですが、処置の痛みが終わったことに心底ほっとしました。もちろん、詰まったところが開通したと思うとさわやかな気持ちがしたのも事実なのですが・・・。
苦しみと悩みが深くあれば、いわゆる「躓いている」余裕はありません。時に厳しい言葉でも、それが病んでいる自らを生かすことであると思うと、ありがたいお言葉として心に響いてきます。しかしどこか人生に余裕があると、語られる言葉に対して途端に批判的になってしまうことがあります。
「カナンの女性」(マタイ15・22~)が、イエスさまからああまで言われてなぜ傷つかなかったのか。恩師の先生がある時の説教で、彼女は傷ついている余裕がなかったのだ、と言われた言葉が心に残っています。
イエスさまの説教を聴いて憤った人びとは、自分たちの中に正義があると思っていたのだと思います。正義は殺意を生み出します。それに対してカナンの女性は、娘をいやしてほしいとの願いで精いっぱいで、自らのうちに正義を見いだすような余裕がなかったのかもしれません。私のプライドなどどうでもよいので、とにかく娘をいやしてください、と願ったのでしょう。
私たちはみないつか必ず死を迎えます。早いか遅いかだけです。そういう切羽詰まった状況に生きているのにもかかわらず、あまりにもいろんなことに怒ったり、嘆いたり、うらやんだりしてしまいます。カナンの女性に学ばなければなりません。