静まりの時 2022年5月12日(木)
ヨハネ5・31~40
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
(ヨハネ5・39~40、新改訳2017)
イエスさまご自身が、ご自分は神さまであるかどうか、を語っておられるところだと思います。
誰かが「私は神だ」といっても、私たちはそれを信じるでしょうか。「神だというのなら証拠を見せよ、証しをせよ」ということになるでしょう。「いいや誰が何と言っても私は神なんだ」と主張されればされるほど、(大丈夫か、この人・・・)、と心の中でいうことになるでしょう。
イエスさまも「もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません」と言われました。なるほどそうでしょう。だから「ほかにも証しをする方がおられる」と言われます。その「ほかにも証しする方(存在)」とは、(1)バプテスマのヨハネ、(2)父なる神さまが与えてくださったイエスさまの御業、(3)父なる神さまご自身、(4)聖書、である、と言われました。
「あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともない」、そのあなたがたが「救われるために」、すなわち神さまを信じることができるようになるために、この四つのものが、イエスさまが神さまであることを証ししていると、いま私はあなたがたに語っているのだ、と言われます。
そもそも、その御声を聞いたこともない神さまを信じる、その御姿を見たこともない神さまを信じる、ということが、どうして私たちのうちに起こるのか。それは、イエスさまが「わたしは神だ~」と主張されたからだけではなく、
(1)バプテスマのヨハネの証言
旧約聖書の預言のとおりに、その道を整える者としてのバプテスマのヨハネの登場。そしてバプテスマのヨハネが指し示したイエスさま。
「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書にこのように書かれている。
「見よ。わたしは、わたしの使いを/あなたの前に遣わす。
彼はあなたの道を備える。
荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。
主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、
バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(マルコ1・1~4)
これは、旧約聖書・イザヤ書40章3節からの引用ですが、この中の「主」は、いわゆる「ヤーウェ」。つまり天と地を創られ、イスラエルを導いてこられたまことの神ご自身が、イエスさまご自身である、とバプテスマのヨハネによって証言されている、ということです。
(2)イエスさまの御業
イエスさまは、旧約聖書の救い主の姿そのままに、神さまの御業を行われました。
「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。』イエスは彼らに答えられた。『あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。』」(マタイ11・2~6)
(3)父なる神さまご自身
イエスさまの洗礼の時、天から父なる神さまの御声が語られました。
「さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」(ルカ3・21~22)
(4)聖書
聖書自身が、イエスさまが神さまであることを証言するために書かれたと証言しています。
「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20・29~31)
結局、神さまを知らない近現代に生きる異邦人の私たちに対して「イエスさまは神さまである」と語られているというよりも、ユダヤ人をはじめすでに固く旧約聖書の神さまを信じている人たちに向かって「イエスさまが旧約聖書において明らかにされている神さまご自身なのですよ」ということが証しされているように思えてきます。無神論者に対してイエスさまは神さまだ、というのではなく、ヤーウェの神への絶対的な信仰に生きる人たちに向かって、実はイエスさまこそ、そのヤーウェの神さまなのですよ、と語っているということです。
39節、40節が心に留まりました。ここには、聖書を調べる、ということと、イエスさまところに来る(行く)ということが、対比されているように思います。
自分が一歩も動かず、裁判官のようになって、聖書を調べている。そうして、イエスさまが神さまかどうかを判断しようとしている、ということは、自分を神としているということですね。それではいつまでたっても、イエスさまへの信仰が生まれないのではないか。大切なことは、イエスさまのところに行く、ということではないか、ということです。
自分の主張、自分の判断力、知恵や知識。それらも大切なことですが、イエスさまを信じて救われるためには、すなわちイエスさまを主として、イエスさまを愛して生きていくためには、とりあえず、イエスさまのところに行くことが最初である、ということになります。
「祈ってごらんよわかるから」という賛美があります。分かったから祈る、というのではなく、とりあえず祈ってみると分かるよ、という賛美です。祈りによってイエスさまのもとに行けば、それまで分からなかったことも、分かるようになりますよ、という賛美です。そんな感じです。
ということで分かっても分からなくても教会に集い礼拝を献げていると、そこに信仰の道が前進していくということです。