静まりの時 2022年5月10日(火)
ヨハネ7・14~24
「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」
(ヨハネ7・17,18、新改訳2017)
「自分から語る人」。共同訳では「自分勝手に話す人」。
イエスさまは、わたしは自分勝手に語っているのではなく父なる神さまのみこころを語っている、と言われました。語られていることが本当に神さまから出ているかどうか、それは、その語る者が、自分の栄誉を求めているのか、それとも神さまの栄誉を求めているかによって明らかにされる。わたしは自分を遣わされた父なる神さまの栄誉をひたすら求めている。自分の栄誉、すなわち輝きはいっさい求めていない、と言われました。
イエスさまのご生涯は、父なる神さまのご栄光が現されることに、その焦点がありました。十字架の死にまで従い、父なる神さまに見放されるほどの暗闇のなかに歩まれました。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、・・・自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2・6~9)
イエスさまの輝きは、この父なる神さまによって与えられた輝きであり、それは神ご自身であるにもかかわらず、十字架に死にまでも従われたことによって明らかにされた輝きです。まったく自分勝手には話されなかったからこそ輝く輝きであった、ということでしょう。イエスさまのご真実は、この十字架に従う謙遜によるものです。イエスさまのお言葉が真実なのは、ご自身が十字架への道を歩まれたお方の言葉だからなのです。
たとえば、山上の説教においてイエスさまは
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」(マタイ7・12)
この、自分自身が人からしてもらいたいと思うことを、自分も同じように人にしてあげなさい、という言葉は、それ自体普遍的な教えであり、そこには真理があると思います。しかしこの言葉が真理を超えて「真実」かどうかの判断は、そこに語る者の「十字架」があるかないかによるのではないかと思います。
自らが十字架を負おうとすることなくして語られた言葉は、それがいくら真理であるかに見えても、ときに人をさばくだけのもの、人を滅ぼしてしまうものになるように思います。自分からは十字架を負おうとしない、すなわちこの御言葉に生きようとしていない人から、あなたも同じようにしなさい、と言われても、いまいちですね。イエスさまのお言葉が、すなわち聖書の言葉が真実に満ちているのは、そこに十字架の愛があるからなのです。
さて、この言葉にもう少し想像を巡らせてみたいと思います。
教会が真実の言葉を語っているかどうかも、教会が自分勝手に語ってはいないだろうか、と振り返ることによって考えることができると思います。教会は自分勝手には語らない、すなわち神さまのご栄光を語る、そのとき教会は真実を語っている、ということになります。
使徒信条で「公同の教会を信ず」という告白があります。父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまへの告白は、分からないではないのですが、この「公同の教会を信ず」という信仰告白にはいったいどういう意味があるのだろうか、と思ったりします。
公同、というのは、公に同じ、という言葉ですが、もともとの言葉は「カトリケー」で、「普遍的」という意味です。ローマ・カトリック教会や、聖公会(holy catholic Church)にも含まれている言葉です。
イエスさまは教会を、わたしのからだである、と言われました。神さまがおひとりであるので、その神さまのお身体である教会もひとつであるはずです。しかし現実には私たちは一地方教会に属していて、地上にはさまざまな教会が存在しています。その地上の教会は見える教会であって、見えない教会こそ真実の教会である、ということでは全くありません。この見える教会と普遍的な教会は一つであることを信じています。ですから一地方教会を大切にします。見える教会を大切にできないのに、見えない教会を大切にすることはできないでしょう。
しかしそれと同時に、自分たちとは違うタイプの教会も、それが主の名によって集う群れであるならば、そこにも公同の教会があることを信じるのです。別の言い方をすれば、自分たちの教会こそ最高であり完全なのだ、ということを言わない、そういう独善的な心から自由になるということです。ですから教会が群れの中で協力するといことが実現します。人がひとりでいるのは良くないと言われたように、教会も一つであるのは良くないのです。自分の教会こそ完全であって、他の教会はみな生ぬるく、真理を語っていない、ということが講壇から語られている教会があるとすれば、その教会は、公同の教会を信ず、という信仰告白に生きていないこととなります。すなわち自分の栄誉を求めているということであって、そこには真実がない、ということですね。
教会は、どこも欠けがあり足りないところがあります。しかしその教会をイエスさまはご自身のお身体と言い切って下さって愛していてくださっているのです。だから私はこの教会を愛しています、という教会への信仰生活に生きると、健康な信仰生活が歩めるのではないかと考えています。教会はいかに愛に満ちているところであるか、ということも大切なことですが、いかに欠けがある教会であっても神さまが愛していてくださる、という神さまのご栄光を明らかにすることも大切なことです。そういう意味では、教会というのは、愛するものなのです。