静まりの時 2022年5月9日(月)
ヨハネ1・14~18
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネ1・14,18、新改訳2017)
歌詞が古代の神学者アンブロシウスの作と伝えられるクリスマスソング「今こそ来ませ」(新聖歌66)の4節に「父と等しく まします御子は 肉をまといて 戦い給う」とあります。「肉をまとう」。すなわち「人(原文では肉)となって、私たちの間に住まわれた」。そのイエスさまは「恵みとまこと」に満ちておられます。恵みとまことを知りたいと思えばイエスさまに学べばよい、ということでしょう。
「いまだかつて神を見た者はいない」のです。しかし「父のふところにおられるひとり子の神」、すなわちイエスさまが「神を説き明かされ」ました。私たちは、イエスさまから恵みとまことを学ぶことによって、神を知る、神を信じる、神を愛する者としていただけるのです。もはやイエスさま以外のものに目を向ける必要がなくなりました。イエスさまだけが「神のふところ」をご存じなのです。
加藤常昭先生は説教集の中で
「『いまだかつて、神を見た者はいない』。少し敷衍(ふえん)して言い換えると、私どもも他の仕方で神を見ることは止めよう、この主イエス・キリストを通じて以外には、ということであります。主が示してくださったこの神のみを知るのであって、それ以外の仕方で神を見たとか、神を見たいとか、そのような願いを述べたり、そのような体験を誇ったりすることを止(よ)そうということであります」
(加藤常昭、『ヨハネによる福音書講解説教1』、ヨルダン社、1997年、79頁)。
と語っておられます。
この「主イエス・キリストを通じて以外」ということは、すなわち「ことばは人となって」ということですから、聖書の言葉によってのみ神さまを知ろう、神さまの御心を知ろう、ということが聖書自身の語る信仰である、ということになるでしょう。
ですから礼拝では説教がどうしても中心となります。そしてその説教が説教となるためには、聖書が説き明かされる、そこにイエスさまの恵みとまことが語られる、ということが大切なこととなります。
また日々神さまにお出会いしたい、と願うならば、聖書を読み、そこでイエスさまにお出会いすればよい、ということになります。聖書を読むことによって、イエスさまに出会うのです。イエスさまにお出会いして神さまを知るのです。
イエスさまにお出会いする。それはイエスさまの十字架と復活において明らかにされた神さまの愛に出会うことです。聖書のどこを読んでも、そこでイエスさまの十字架と復活の愛に出会う。恵みとまことに出会う。そうして神さまにお出会いするのです。
とはいうものの、自然の中で神さまを肌で感じたり、いろいろな体験を通じて神さまにお出会いするということも、キリスト教会では大切にされてきました。ただこれはキリスト教でなくても、さまざまな宗教で大切にされてきたことでしょう。人間の基本的な欲求なのかもしれません。だからこそ、そこで聖書に帰る、聖書で軌道修正される、ということが大切なことになってくるのでしょう。
棚村重行先生の『現代人のための教理史ガイド』という楽しい書物の中で、教理の歴史が自動車にたとえて説明されています。この例に倣って考えてみると、自動車の仕組みはあまりわからなくても運転自体はできるでしょう。しかしいざ自動車にトラブルが起こると、ええっとマニュアルにはどう書いてあるだろうか、ということで説明書を見ることになります。説明書はたいてい膨大なページ数なので、見る気がせず、あるいは適切なページを開くことがすぐにできず、それとは別に簡単なマニュアルカードを見ることになります。ここで説明書を聖書、簡単なマニュアルカードを信仰告白(使徒信条など)とあてはめてみます。信仰生活は、あんがい経験的にできたりします。お祈りも礼拝も何となくわかっているような感じがします。神さまというお方がどのような方であるのか、分かったような気もするでしょう。しかしその信仰生活は時に独善的、独りよがりになる可能性があります。独善的、独りよがりということは、すなわち倫理に限界があるということです。そこでさまざまなトラブルが発生します。いったんトラブルが発生すると、経験値だけでは対応できません。そこで聖書を調べるのですが、ぴったりの答えにたどり着くためにはずいぶん時間がかかります。そこで使徒信条の出番となります。
ということでキリスト教は、自然宗教ではなく啓示宗教である、ということになるのですね。
昨日の礼拝後には女性会の祈り会が行われたのですが、オンラインでの開催という画期的な取り組みとなりました。少し設定に関わったのですが、私もあんまり分かっていないというか、分かったような顔をしているというか・・・。女性陣は逞しく果敢にチャレンジされて、なかなかの盛況でした。
午後、カーネーションを買いに、自転車でお花屋さんに行きました。お花屋さんは、母の日フェアーでにぎわっていました。一本買うのが少しあれだったので、見栄を張って四本買ってしまいました。妻に渡すとたいそう喜んでくれたのですが、これは本来子どもたちが買うべきものではないだろうか、と議論になりそうでした。しかしお花屋さんというものはいいところですね。このところ少なくなったのですが、時々何でもない日に、妻にバラの花を買って帰ったことがありました。
漫画『ワンピース』で、サイボーグ・フランキーが敵を装甲車でなぎ倒しながら進む中、ひとたび立ち止まり「何か踏んだか? まあ、花でなけりゃいい」とうそぶく場面がありました。