静まりの時 2022年4月27日(水)
マタイ24章29~31節
「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」
(マタイ24・29~31、新改訳2017)
ヨハネの福音書には聖書の書かれた目的が記されています。
「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20・30,31)
聖書が書かれた目的は「イエスさまが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」そして「信じて、イエスの名によっていのちをえるため」であると聖書自身が語ります。ですから聖書は「イエスさまが神の子キリスト、救い主であるということを信じること」、そして「信じる者がイエスさまのお名前によっていのちを得ること」を目的として読んでいかなければ、読んだことにならないといえますし、また間違って読むことにもなりかねません。
このマタイの個所も、いわゆる終末、世界の終わりを語っていますが、ここでも、イエスさまを信じることと信じていのちを得るという目当てをもって読んでいくことが大切でしょう。読むことによって不安になる、とか、愛深いイエスさまのお姿が見えなくなった、というのでは、間違った読み方になっているのだと思います。
「苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます」。
マタイの福音書は「神」という言葉をできるだけ避けて、その代わりに「天」という言葉を使います。ですから天という言葉が出てくると、すべてではありませんが、神を表していると理解することになります。ここでも「天のもろもろの力」というのですが、それは神のもろもろの力と考えることができるでしょう。ただここでの「神」は聖書の神ではなく、古代地中海世界に頼りとされていた「神々」のことでしょう。それはまた人間が危機に際して頼りとするさまざまなこの世の力と理解してもよいのかもしれません。それらが揺り動かされる、つまり頼りにならないこととなる、というのです。人生の苦しみに重ねて、この世の知恵が何一つ役に立たない事態を迎えることになる、それがこの世の終わりの姿である、というのです。
「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」。
苦しみの時、そして人間的な知恵や力が何一つ約絶たない事態を迎えたとき、「人の子のしるしが天に現われる」といいます。この「人の子のしるし」は古代教会では「十字架のしるし」と理解されてきたようです。絶望の時に、天に十字架のしるしが現れる、というのです。
「そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」。
使徒の働き2章でペテロがイエスさまの十字架の説教をしたとき、それを聞いた人びとは「心を刺され」「私たちはどうしたらよいでしょうか」といいました。十字架のしるしが明らかにされると、それを聞く人びとは、心が刺されます。地のすべての部族は胸をたたいて悲しみます。その悲しみの中で人びとは、人の子、すなわちイエスさまが天の雲のうちに、偉大な力を栄光とともに来られるのを見る、といいます。十字架に架かられたお方こそ、まことの神さまであり、この世界のすべてをご支配されている偉大な存在であることを見るのです。十字架を見上げることによって生み出される悲しみが、人の子の栄光を見る道をひらく、ということでしょう。
聖書は、世の終わりには「天と地を創造されたまことの神さまが、十字架に架かるほどの愛をもって私たちを、そしてこの世界のすべてをおさめておられるということが、完全に明らかになる」と語るのだと思います。
「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」。
そのとき、イエスさまは、御使いを遣わしてくださり、「天の果てから果てまで四方から」「人の子が選んだ者たち」を集めてくださいます。どんなに辺境の地にあっても、人びとから見捨てられているようなところにいたとしても、主を信じる者は、主のもとに集めていただけるというのです。
終末、世の終わりは、イエスさまを信じる者にとっては、救いが完成される喜びのときです。私の個人的な救いの枠をはるかに超えて、世界大の救いが完成されるときである、というのです。今生きる私たちの毎日は、さまざまな矛盾と不公平に満ちてるかもしれません。しかし最後にはかならず神さまが「帳尻合わせ」をしてくださるのだ、その喜びのときを待ち望んで今の時を生きよう、喜びを先取りして生きていこう、と聖書は私たちに呼び掛けているのだと思います。
ヘンリ・ナウエンは「待ち望むということ」という書物の中で、最後の文章を次のように締め括っています。
「待ち望むということの本質は、わたしたちが神を待ち望むというだけではありません。それは、神ご自身がわたしたちを待っておられるみ業(わざ)に関与することであり、そうすることで、もっと深い愛、すなわち神の愛にわたしたちがあずかっていくということです」。
(ヘンリ・ナウエン、「待ちぞ飲むということ」、『わが家への道』、あめんどう、122頁)
私たちが、世の終わりを待ち望むということは、その待ち望む日々において、私たちと共に待っていてくださる神さまのみわざに、あずかっていくことである、というのでしょう。その中でこそ、神さまの深い愛にあずかっていくのだ、というのです。待ち望む生き方は、私たちが、今日も神さまの深い愛の中に生きる道を整える、ということです。
どんな状態になっても、どんな状況の中にあっても、この世の知恵や力が何の役にも立たなくなってしまっても、大丈夫、最終的には神さまがちゃんとしてくださる、と信じているということ。それが神さまの深い愛に生きる道をひらき、また隣人への愛に生きる道をひらきます。
むかし仕事上のことで不安に駆られた兄弟に、ある兄弟が「大丈夫ですよ」と語りました。しかしそう語った兄弟には何の根拠もありませんでした。ところがその根拠なく語られた「大丈夫ですよ」が、不安の中にあった兄弟を力づけました。根拠のある平安は、その根拠にいったん陰りが見えてくると失われてしまう平安です。しかしイエスさまを信じる者は、この世的な根拠が全くなくても「大丈夫ですよ」といえる平安をいただいているのです。根拠がないからこそかえって失われることのない平安に生きることができるのです。何と幸いなことでしょう。