一粒の麦

静まりの時 2022年4月28日(木)
ヨハネ12章20~26節

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

(ヨハネ12・24、新改訳2017)

 十字架に向かわれる一週間。イエスさまは過越の祭りの中で十字架に架かられます。「ホサナ。祝福あれ・・・」(12・12)となつめ椰子の枝を持った群衆に迎えられたイエスさまは、その週に、同じ群衆の「十字架につけろ」(18・40、19・15)の叫びの中、十字架につかれます。
 その祭りの中、ギリシャ人がイエスさまに会いに来ました。このころギリシャ人とユダヤ人の間には険悪なムードがあったそうです。しかしこの名もないギリシャ人は求道の心を持ってイエスさまのところにやって来ました。直接は畏れ多いと思ったのでしょうか。まずピリポに「イエスにお目にかかりたいのです」と相談します。するとピリポはアンデレに話します。そしてピリポとアンデレは一緒になってイエスさまのところに来ました。イエスさま、ギリシャ人があなたに会いたいとやって来ているのですが・・・。
 ユダヤ人ではないギリシャ人。すなわち異邦人の救いの道が具体的に前進するのは、使徒たちの時代になってからでしょう。しかしイエスさまは、このときすでに異邦人の救いの道が開かれていることをお語りくださっているように思います。

 そこでイエスさまが語られた言葉が、この有名な「一粒の麦・・」です。
 この文脈からは「一粒の麦」とはイエスさまご自身のことです。「地に落ちて死ぬ」とは十字架に架かって死なれる、ということでしょう。十字架に架かって死ぬことによって「豊かな実を結ぶ」といわれたのです。それは、ピリポやアンデレはもちろんですが、やってきたギリシャ人のためにも、十字架に架かって死ぬのだ、その死によって、ギリシャ人も豊かな実の一つとなるのだ、と言われたのだと思います。

 自分たちのために、イエスさまが一粒の麦のように死なれる。それによって自分たちは豊かな実となる、そうしてイエスさまの死によって生まれた実として生きることになる。ピリポやアンデレ、そしてそれを伝えられたであろうこのギリシャ人たちも、そのようにイエスさまから語られました。

 イエスさまにお会いしたい、と求道の心を持ってやってきたギリシャ人が、イエスさまから聞かされた言葉は「あなたのために私は十字架に架かります。あなたも私の死、すなわち神のいのちによって生み出された豊かな実です」という言葉でした。求道者に語るべき教会の言葉は、この一言に尽きるのではないか、と思います。

 私も、神さまの死によって、そのいのちの犠牲によって生きる者とされた大切な神さまの実、大切な果実なのだ、と知る。そしてそのことを世界に向かって、また隣人に向かって語る。それが教会の信仰であり伝道なのだと思います。

 この段落の最後となる26節の最後の文章ですが、新改訳2017では

「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

 以前の新改訳では

「もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」

 とあります。

 原文では「仕える」は「食事の給仕をする」という意味です。「重んじる」「報いる」は「値をつける」という意味がもともとの意味ですので、このような訳になっているのだと思います。

 しかし「重んじてくださる」「報いてくださる」というと、何か会社組織の中で他を差し置いて優遇される、とか、報酬が高い、という印象を持つのですが・・・。

共同訳2018では

「私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 「大切にしてくださる」。こっちはいい感じがしますが、いかがでしょうか。

 一粒の麦とまではいかなくても、イエスさまにお仕えする人生を、イエスさまは大切に見つめていて下さるのです。