昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった

静まりの時 2022年4月26日(火)
出エジプト記13章17~22節

「・・・主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」

(出エジプト記13・21,21、新改訳2017)

 イスラエルの人びとがエジプトから出発します。奴隷状態の中にあったエジプトでの生活を後にして新しい地に向かって出発します。神さまに導かれて出発します。神さまはその道の安全を守られます。近道ではあるけれども困難が予想される道を避け、安心して進むことのできる道へと導かれます。その道は遠回りで、また荒野の道です。遠回りでも荒れ野であっても、神さまが導かれる道こそ、最善の道です。
 神さまは、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれました。雲の柱、火の柱は、彼らの先頭から離れることはありませんでした。民が目を上げると、いつもそこに神さまご自身が導いておられるのだ、ということを知ることができました。

 このときエジプトから出発したイスラエルの人びとの人数は定かではありませんが、出エジプト12章37節に「イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった」とありますので、おそらく女性や子どもたちを加えると300万人以上の人であったと想像できます。それに加えて旅のさまざまな物資がありますから、たいそうな旅行列です。
 300万人というと、現在滋賀県の人口が141万人となっていますので、その倍の人数です。ものすごい旅行列です。それが隊列を組んで出発し、進んで行きました。隊列を組まないと進めないことだったのかもしれません。先頭としんがりの距離はどれくらいだったことでしょう。人間の視力では把握することが難しかったことでしょう。その旅を、神さまは先頭に立って力強く導かれました。昼は雲の柱、夜は火の柱によって。どこからでも見上げることのできる、雲の柱、火の柱によって。

 この隊は「昼も夜も進んでいった」といいます。人間は、食事もしなければなりません。トイレにもいくでしょう。睡眠も必要です。実際つねに歩き続けるということは不可能だったことでしょう。しかし聖書は昼も夜も進んで行くために、神さまは導かれたと語ります。

 この「進んで行く」と訳されているヘブル語には「行く、歩く、生活する 」といった意味があります。文字通り前進するということかもしれませんが、実際には隊は前進していなくても、神さまに導かれて生活していく、ということそのものを表しているのかもしれません。食事のために立ち止まっても、トイレ休憩があっても、また睡眠の時も、旅は続いているのです。すべてが旅なのです。その旅を神さまが導いていてくださる。進む時も、止まる時も、すべてが安心、安全な旅の中の一つの「時」なのです。

「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」(伝道者3・1)
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11・13)

 イエスさまを信じて生きる者は、みな地上では旅人です。はるか遠くにある約束、天の御国を見て喜び迎え(共同訳2018では「喜びの声を上げ」)ています。
 遠回りでも、荒野のように見える道であっても、神さまがいつも先頭に立って導き支えていてくださいます。力強く前進する時も、立ち止まる時も、旅は続いていきます。イエスさまを信じる私たちは、その時々を喜びの声を上げながら歩んでいきます。