静まりの時 2022年4月25日(月)
第一ヨハネ1章5~10節
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。」
(第一ヨハネ1・5、新改訳2017)
神さまは光であり、神さまには闇が全くない。その神さまと交わりがあると言いながらも、依然、闇の中を歩んでいるとするならば、私たちは偽りを言ってる。そんな私たちが行うことが真理となるはずがない。神さまと交わりがあるのだから、光の中を歩もうではないか。もし神さまとの交わりの中にあり、そうして光の中を歩んでいるならば、今度は、イエスさまを信じるお互いの間の交わりが可能となる。そうしてイエスさまの十字架の血が、すべての罪から私たちをきよめるのだ。神さまとの交わり、そして互いの交わりが実現するところで、私たちはきよめられていくのだ。
もし自分には罪がない、すなわちきよめられる必要などないのだ、というならば、それは自分自身を欺いているのだ、自分自身を欺くような生き方に真理はない。しかし自分こそ罪びとの頭である、自分は数々の罪を犯した、今も犯さずにはいられない罪びとなのです、と神さまに向かって告白するならば、神さまはいつでもその罪を赦してくださる。そして悪、不義、不正からきよめてくださる。もし自分は罪を犯したことがない、などというならば、私たちは自分を欺くだけではなく、それは神を偽り者とすることになるのだ。神を偽り者とするような者には、もはや神さまの御言葉はない。すなわち神の言葉であるイエスさまが共にいてくださることはない。
神さまの光の中に歩むということは、そのあたたかで清らかな光の中に照らし出されて生きるということですから、当然、自らの罪が照らされることになります。それが光である神さまとの交わりの中に生きるということであり、それがまた互いの交わりを可能とします。
罪びとである私たちですが、信仰生活の中できよめられていきます。神さまとの交わり、そして兄弟姉妹との交わりによってきよめられていきます。この交わりは、自らを罪びとであると告白する者たちによって成り立つのです。私も罪びとなのです、と安心して告白するところで、私たちはきよめられていきます。そして神さまからの赦し、そして兄弟姉妹の間での赦し合いの中で、きよめられていきます。みことばに生きるということが実現していきます。イエスさまが共にいてくださる恵みに生きることができるのです。
「交わり」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「コイノーニア」といいます。私たちの教会では「手仕事コイノニア」という、手仕事を通しての交わりの時があります。いつも麗しい交わりの中に行われていますが、その名称もこのコイノニアからつけられたのだと思います。
この言葉には「共有する」とか「分け前に与る」という意味があります。きよめられなければならないお互いであるということが確認され、また了解されるところに成立する交わり、ということでしょう。そしてこの交わりは、聖餐式の交わり、を表してもいます。私たちは聖餐によって、自らが罪びとであることを告白します。そして聖餐のパンとぶどう汁によって神さまと交わり、そして兄弟姉妹と交わるのです。そうしてきよくされていくのです。きよくされるということは、清くされることであり、また聖くされること、神さまのものとされるということです。