何かわたしがしなかったことがあるか

静まりの時 2022年3月28日(月)
イザヤ5・1~7

「・・・わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。・・・」

(イザヤ5・4、新改訳2017)

 神さまに選ばれ神の民として祝福の中にあったイスラエル。しかし神さまへの信仰の道を踏み外し、結果滅びの道を歩みました。イスラエルはよく整えられたぶどう畑のように、おのずと良いぶどうが実るはずでした。しかし酸いぶどうができてしまった。いったい何が原因だったのか。神さまのなされたことに何か足りないことがあったのだろうか・・・。
 神さまの準備には何一つかけはありませんでした。問題はイスラエルの中にあった罪です。罪が、せっかくよいぶどうができるための条件が完全に整えられたにもかかわらず、酸いぶどうができてしまった原因なのです。

 神さまがイスラエルの中に罪をお創りになられたのでしょうか。神さまの完全な準備の中に罪の種もあったのでしょうか。神さまが罪を、あるいは罪の種を創られるはずがありません。罪とは一体何なのでしょうか。

 神さまの創造の御業は、愛に満ちています。神さまが人間を創られたという創造の業も神さまの愛に満ちています。さらにその創られた人間も「愛する者」として創られました。神さまを愛する、また自分を愛する、そして互いに愛する者として創られました。

 愛というのは不思議なものです。愛が愛であるためには、愛さない自由が必要です。愛さないでもよいという自由のないところでの愛の行動は、愛ではありません。ですから愛はつねに、愛するという動詞でしか存在できないのです。愛さないでもよいという自由の中で、愛するという道を選択する、ということが愛に生きるということです。人間はそのように創られました。
 しかし創世記3章で、この愛を完全に濫用してしまいました。自分の願望のままに愛を乱用したのです。そうして罪が入り込んでしまいました。それと同時に死が入ってきたのです。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5・44~48、新改訳2017)

 このイエスさまが山上の説教の中で語られた「神の完全」とは、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」完全さです。それに対して人間の考える完全とは、太陽を昇らせ雨を降らせるのは善人にだけ、悪人には太陽を昇らせない、雨を降らせない、それが完全だとしてしまいます。律法学者やパリサイ人は、そのような完全を求めたのでしょう。しかしそれは神さまの完全とは全く違うものでした。神さまの完全は、人間の目から見れば「不完全」と見えるものを、そのうちに含むことによって完全となる完全。つまり愛において完全となる完全なのです。不完全を内包しない完全には、愛はありません。その完全は人間の完全ではあっても、神さまの完全ではありません。

 神さまの創造の御業は愛に満ちているのですが、創造されたということ自体にすでに豊かな愛が満ちています。人間がまもなく愛を濫用して罪を犯すであろうことを、全能の神さまは想像できなかったわけではないでしょう。にもかかわらず人間を創造されたのです。私たちは作ってもなんの役に立たず捨てられるだけと分かっているものを果たして作るでしょうか。
 ということは、すでにその創造ということの中に、自らがその罪を負うという神さまの決意、十字架に架かる決意があるのです。創世記1~2章は、十字架に愛に満ちているのです。

 教会は愛の場所です。そうであるならば、つねにこの「不完全を内包する完全」の場所でなければなりません。教会の運営、集会の運営、互いの交わり、そこで交わされる言葉。その中に「不完全を内包する」ということが大切になって来ます。不完全を締め出そうとすると、それはまた愛を締め出そうとすることとなります。もし教会が破壊されるということが起こるとすれば、多くの場合、ちゃんとしなければならない、という思いが破壊しを生み出してしまうのではないか、と思われます。神学校で新約学の先生がぽろっと「神学生の皆さん。教会はね案外熱心な人が問題を起こすのですよ」と言われたことが耳に残っています。熱心さは悪いことではありません。私たちは熱心にイエスさまを愛したいと思います。しかしそれが不完全を締め出し、そうして愛を締め出すことであれば、もうそこはイエスさまの教会ではありません。

 イザヤ書をはじめ預言書には罪を犯すイスラエルをたびたびさばかれる神さまの姿が出てきますが、それも再び出発してほしい、もう一度立ち上がって愛に生きてほしいという神さまの願いです。そこにも、十字架の愛、そして復活の愛が満ちているのではないでしょうか。

 この春場所はいくども涙をぬぐう場面をいただきました。昨日の千秋楽。送り出しで高安に勝った阿炎。連敗から白星を増やし9勝でカド番を脱出した正代。正代、やればできる!。そうして実現した若隆景、高安の優勝決定戦。32歳の高安にも勝ってほしかったですが、ここは若隆景の戦闘能力に見ている私も圧倒されました。最後はしっかり高安の回しをつかんで上手出し投げ。涙が溢れました。新関脇の優勝は86年ぶりとのこと。インタビューに答える一つひとつ言葉にも、その闘う男の謙遜と矜持が感じられました。すばらしい。

PXL_20220323_050330469.MPPXL_20220325_041710938.MPPXL_20220325_043443256.MPPXL_20220325_044020080.MPPXL_20220325_045436174.MP

春の花たちのいのちが輝いてきました。