神の永遠の力と神性

静まりの時 2022年3月14日(月)
ローマ1・18~23

「・・・神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。・・・」

(ローマ1・20)

 旧約聖書への知識がないということは天地を創造した人格神への信仰的知識がないということなので、いきなりイエスさまの十字架と復活を語っても、神々の中の一つの神としての「イエス」を信じるだけになってしまい、結局十字架と復活の意味が十分に理解できないということになるでしょう。十字架にかかり死なれたお方がまことの神である、まことの神が私のために死なれた、という信仰が生まれないでしょう。私の罪の深さが、神のいのちによってしかあがなうことが不可能であるという信仰、それとともに、そうまでして私を救いたいという信仰、が不明確になるでしょう。
 ということで、ローマ書にも天地を創造した神さまについてのことが語られています。
 今朝の段落は、人間の不義について論じられているところですが、その中で、「神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる」とパウロは語りました。
 昨日礼拝説教の中でも少しお話ししましたが、昨日の朝日新聞・天声人語の中に以下のような文章がありました。人類学者の竹倉史人という方の言葉を引用して「冬に死んだようだったクルミの木が春に芽吹き、秋に豊かな果実をつける。この死と再生の物語が「”奇跡”以外の何であろうか・・・何らかの”善意ある存在”の介在を感じないことの方が難しいだろう」(天声人語 2022.3.13)。この言葉は「植物の精霊の姿」と文章が続きますので、決してキリスト者のキリスト者的発言ではないと思いますが、パウロの語るところと少し通じるような気がします。

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 単なる霊力というのではなく「善意ある存在の介在」というのは、善意、すなわち人格を持つ存在、そしてその存在が私たちに無関係にあるのではなく世界に「介在する」という理解。それは人格神を信じる聖書にも通じることなのだと思います。もちろん聖書の神を語っているのではありませんが。しかしそういう「善意ある存在の介在」を感じて、教会の門をたたいた人は幾人もいます。

 今週の「古楽の楽しみ」では「ルカ受難曲」が流れています。バッハが演奏した作曲者不詳と紹介がありました。その意味が十分に理解できているわけではありませんが、静かで清らかな朝を過ごすことになります。

 昨日は礼拝の日。礼拝後、短い役員会があったり、来会者との対応、などなど。午後は彦根教会の応援に出かける日で、礼拝のあと話し合いがあったりで、結局早朝から夜6時まであわただしく過ごしました。ウォーキングや室内自転車ができない日でしたが、それに代わる運動はあったような気もします。来会者の祝福、つながる方々の祝福を祈ります。
 先週参加した静まりの会で

「最善(ベスト)に対する一番の敵は、次善(ベター)や善(グッド)です。たとえ良い働きであっても、自分がすべきだとは限らないこともあるのです」(中村佐知「主とともに退く 2 戦略的撤退」、『船の右側』より)

 という言葉に出会いました。私は、すべての人が信仰の道に歩むこと、イエスさまに出会い、十字架と復活の主に出会い、幸せな人生を歩んでほしいと願っています。それで今までひた走ってきたのですが、60になって、また病気をして、最善(ベスト)を選択しているだろうか、と考えさせられました。最近新聞の書物の広告欄の「我慢して生きるほど人生は長くない」という書物が目に付くのですが・・・(笑)。

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