静まりの時 2022年3月11日(金)
ハバクク3・13~16
「あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出て来られます。・・・攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます。」
(ハバクク3・13~16、新改訳2017)
南ユダ王国へのバビロニアの侵攻、バビロン捕囚と、国家的な苦しみの中で、預言者として神さまの言葉を語りつつ祈りに生きたハバクク。「攻めて来る民」。ここでは自分たちに苦しみを与えているバビロン。そのバビロンに対して「臨む苦しみの日」。神さまがさばきをなされること。そのことへの、あるいはそのような神さまへの信頼が語られているようです。
苦しみの中にあってハバククは「私は静かに待ちます」と語ります。新共同訳では「わたしは静かに待つ」、共同訳2018では「私は静かに待とう」。いずれも堅い決意、決心を語っているように感じます。自分の力で、いたずらに復讐心に生きるのではなく、また力による現状変更に走るのではなく、静かに待つということ。
「待つ」といっても、ナウエンだったでしょうか、たとえば自分の乗るバスが来るのを待つ、という時の「待つ」と、愛する者からやって来るであろう手紙を待ち望む時の「待つ」。ただ無駄な時間としてぼーっと待つのと、後者のように「待ち望む」ということ。同じ「待つ」という行為も、その心のありようによって、あるいは信仰によって、といってもよいと思いますが、ずいぶん違いがあるように思えます。
待つことが難しいのが人間かも知れません。「我慢」や「忍耐」が必要となります。少し言葉の遊びですが、我慢になくて忍耐にあること。それは希望だと思います。我慢は「我」を「慢心」させると書きますからどこまでの自己中心です。自己中心には希望の生まれる余地がありません。しかし忍耐には希望があります。外に向かって開かれた心です。期待して待つ、希望をもって待つ、つまり「待ち望む」という生き方を私たちにもたらします。
この「待ち望む」という生き方に伴う「忍耐」は「いまこの時を生きる」という生き方へ私たちを導きます。
「忍耐が私たちに求めていることは、今この瞬間を十分に生きること、今この瞬間にしっかりと腰を据え、今ここにいるということを味わい、私たちがまさに今いるところにいる、ということなのです。・・・私たちが探している宝物は、私たちの立っている地面に隠されているということを信じましょう。」
(ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』より)
今この時を生きることができないということは、待ち望む生き方になっていない、静かに待つということができていない、ということなのでしょう。
静まりの会では、各セッションで20分ほどの黙想をします。丹田を意識しつつ、身体を楽にしつつ、しかししっかりと保ちつつ、ひたすら静かに呼吸をします。自分の呼吸に意識を集中し、心の中を空っぽにしつつ、自分自身が透き通っていくようにと静まります。あわただしく時を過ごし、過去や将来に気を取られ、今この瞬間を生きることの難しい私たちです。それはまた愛することを難しくさせているのかもしれません。
昨日は、団体総会の資料の最終チェックも終わったとして印刷、製本、発送の作業が無事に終わりました。現在は代議員分と教会分で60部ほど作成するだけですから、ずいぶん楽になりました。以前は団体の会員600部を作っていました。おまけに輪転機で一枚一枚裏表印刷をして、それから製本作業をするので、子どもたちも手伝わせて、2~3日かかりながらの作業でした。なつかしい思い出です。
と、今朝妻が出来上がった資料を見ていて、さっそく間違いに気づきました(笑)。
晴天の穏やかな日が続いています。感謝です。