静まりの時 2022年3月2日(水)
マルコ4・26~29
「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。』」
(マルコ4・26~29、新改訳2017)
一日の始まりは夜明け、朝のように思いますが、実際には真夜中でしょう。聖書の世界では一日は日没とともに始まります。さあ一日が始まるぞ、まずは眠ろう、みたいな感じです。
神さまの御国は、地がひとりでに実をならせようなものである、とイエスさまは語られました。「神の国」と死後行くことになる彼岸、来世としての天国と考えると、あまり意味が分からないのですが、「国」ということばは「支配」という意味ですから、神さまの御国は、神さまのご支配と理解しましょう。神さまのご支配というのは、人のあずかり知らないところで、ひとりでに実をならせ、やがて収穫の時が来ると、その実を収穫するようなものである、というのです。
神さまのご支配の中に生きるということは、自分が努力した結果、実を結ぶ、という生き方ではなく、ひとりでに実をならせる。この「ひとりでに」という言葉は、ギリシャ語で「オートマトス」という言葉で、オートマティック、自動的に、という言葉の語源となった言葉です。
考えても見れば、こうして朝を迎えることができた、というのも、自らが努力した結果ということではありません。そもそも眠りから覚める、ということも不思議なことです。心筋梗塞を起こした人たちのWEBサイトを見ていると、その中には、朝を迎えられるかどうか不安で夜眠りにつくのが怖かった、という言葉がありました。まったく同感で、その文章に、ああ同じ経験、同じ気持ちの人がいる、と思い慰められました。
自己責任という言葉が聞かれますが、病気になったことまで、自己責任と言われると、ちょっとつらいものがあります。こうして生かされていることは、自己の努力の結果というのではなく、一方的な神さまの恵みであると信じると、生きていこうと勇気が与えられます。
昨日は、オンラインんで教師会、法人の総会が行われました。午後は少し残務処理もあり、また雨も降ってきたので、ウォーキングはお休みしました。
教師会では、長浜の先生が『病の神学』という書物の紹介をしてくださり、大いに励まされました。感謝でした。