実を結ぶ人たち

静まりの時 2022年3月1日(火)
マルコ4・13~20

「・・・良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」(マルコ4・20、新改訳2017)

 「みことばを聞いて受け入れ」という文章は、たとえばマタイの福音書7章24節の「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」の「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」を思い起こさせるのではないかと思います。
 みことばを聞くこと、そしてそれを受け入れること、また行うこと。これらを別々の単語で聖書は記しますが、それは決してそれらが独立しているのではなく、一つとなることを大切にいうのだと思います。
 聞いたけれども受け入れない、聞いたけれども行わない、というのは結局のところ聞いていないのです。神さまのおことばは、ひとたび聞くということが始まった途端、受け入れる、行うという方向性を持つのです。みことばは、ひとたび聞くならば、受け入れざるを得ない、行わないではいられない、そうして実を結んでいくという力を持っているのです。それが「みことば」の力でしょう。
 しかし、また同時に、聞いた者の「受け入れる」こと「行うこと」が問われます。自動的に実を結ぶわけではありません。道端であろうが、岩地であろうが、茨の地であろうが、どこでも実を結ぶというのではありません。「良い地」である、ということがまた大切なことである、と聖書は語ります。
 この「みことばの力」と「良い地である」ということ。この二つが、神さまと人とがともに働いて実を結んでいく。神さまは決して力が足りないので、人間の助けをお求めになっておられる、というのではありません。神さまは何でもできるのです。しかしその何でもできる神さまが、あえて人間とともに働くこと、生きることをお求めになっておられる。それは決してペラギウス主義(派)、あるいは神人協力(協働)説(シナジズム)ではなく、愛である神さまのなさり方なのだと思います。
 ですから一所懸命、良い地になる努力が私たちには必要です。しかしその努力も神さまの御手の中にあるので、実を結ぶとき、決して高慢になることなく、神さまへの感謝に生きることができる、ということでしょう。

 30,60,100倍と言われますが、水田の稲は、一粒から一本の苗ができ、それを5本ぐらいまとめて一株として植えられ、それが分けつし25本ぐらいの稲穂になる、1本の稲穂に70粒ぐらいがつくとして、一株で1750粒ができる、とのこと。だいたい350倍でしょうか。計算があっているでしょうか。ウォーキングをしていると、麦が青く育っています。また5センチぐらいでしょうか。神さまの創造された世界はいのちに満ちています。ひたすら良い地として受け入れるならば、みことばのいのちが豊かに実を結びます。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」(ガラテヤ5・22,23)

 昨日は、朝にいつも飲むコーヒーの準備をしようとすると、ペーパーフィルターを切らしていたことに気付きました。インスタントで、ということになるのですが、そのまえに父の遺した荷物の中にコーヒーサイフォンがあることを妻が思い出しました。出して来てみるとまだ一度も使用された形跡がありません。それで試しに使ってみることになりました。ただアルコールランプのために燃料アルコールがありません。それで灯油でも大丈夫だろうと思ってやってみたところ、すすが大量に出て、なんか大変なことになりました。結局、午後に燃料アルコールを買い求め、ようやくコーヒーを淹れることができました。こんなことなら素直にペーパーフィルターを買いに行けばよかったですね。
 妻と知らない土地にドライブに行くと、ときおり間違った道に進んでしまいます。それを修正しようとして、さらに突き進んでしまうことがあります。そんな時は立ち止まって、引き返し間違った地点からもう一度始めればよいのですが、間違ったとはいえ走ってしまった道のりをもったいないと考えるのか、なかなか戻れません。ギャンブルで、深みにはまってしまうのは、失ったものをいたずらに取り返そうとするからだ、と聞いたことがあります。コーヒーの顛末は、そんなことを考えさせられました。失ったものは神さまの御手の中にあると信じてゆだねることがよいことですね。

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