奴隷の家から導き出したあなたの神

静まりの時 2022年1月31日(月)
申命記5・6~11

「『わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。・・・」

(申命記5・6,7、新改訳2017)

 十戒は出エジプト記20章に記されていますが、それ以外にもいくつか記されています。その一つがこの申命記の5章6節からです。
 十戒の第一戒は「わたし以外に、ほかの神があってはならない」ですが、その前文に「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」があります。この前文は十戒を読むときにとても大切な文章です。これがなければ十戒はただの道徳訓、お題目となります。
 この前文では、「わたし」というお方が語られます。そしてその「わたし」というお方が、何をなさったのかが語られます。そのお方が「エジプトの地、奴隷の家から導き出した」方であることが語られるのです。そしてその奴隷から解放してくださった方は「あなたの神、主である」と語られるのです。つまりこの前文では、神さまが何をなしてくださったのか、何をなしてくださった方があなたの神、主であるのか、が明らかにされるということです。
 十戒を読むにおいて大切なことは、まずはじめに神さまの行動がある、愛の行動がある、絶対的な全能者による、圧倒的な解放の行動があった、と語られることです。その神さまの行動があって初めて、それ以降に続く十の戒めが、それを聞く者に可能となるのです。十戒に生きる道は、まず神さまご自身の救いの御業があって、その上に築かれていくということですね。救われるために十戒を守るというのでは全くなく、救われた者は、このような素敵な人生に生きることができる、と人生の道を指し示している、私たちを救って下さった神さまは、こんな素敵な人生に私たちを招いていてくださる、あなたもこんな素晴らしい人生に生きることができると招いていてくださる、それが十戒であるということなのです。
 この神さまに始めていただいた人生ですから、すでに神さまが私の神としてともにいてくださるのです。にもかかわらず、ほかのものごとを神にしていては、この素晴らしい人生に生きることは難しくなっていまいます。

 昨日は主の日、礼拝の日でした。早朝で奏楽をしてくださった姉妹がつづいて午前の礼拝でも奏楽の奉仕を担当してくださいました。いつも思いますが、奏楽者の奉仕には本当に感謝だなと思わされます。ただの伴奏ということではないでしょうし、それはそれは祈りまた緊張しながらご奉仕くださっているのだと思いますが、それとともに救われた喜びがその音色に込められているのを思います。感謝しています。自分のそんなことができるといいなと、ふと思うこともあります。
 幼い頃より姉が弾くピアノが家に流れていましたので、私も幼稚園だったか小学校の低学年のころだったか、その姉にならって近くのピアノ教室に通わせていただいたことがありました。教則本は、楽しい挿絵のついたバイエルだったかと思いますが、少し通って、左手が始まったとたんに、自分には無理な世界であると子どもながらに悟ってぱったりいかなくなりました。
 学生の時に、音楽教材だったでしょうか、の単位が必須だったので、今は妻となってくれた女性に特訓を受けて、片手でエーデルワイスを弾くということをやったことがありました。そのころは音楽教材の授業も柔らかくなっていてそんな感じで単位をいただいたような気がします。しかしもし実際に小学校で教えることを想像すると、子どもがかわいそうというか、とんでもないことだったな、と思い返します。人間にはできることとできないことがあります。
 いまでも姉が弾いていた乙女の祈りやなんだったかは、どこかで聞こえてくるとうれしい気持ちになります。