静まりの時 2022年1月29日(土)
ヨハネ8・21~30
「・・・そこで、ユダヤ人たちは言った。『「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。』イエスは彼らに言われた。『あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。』・・・」
(ヨハネ8・22~24、新改訳2017)
「わたしはある」。神さまは出エジプト記3章でモーセにご自分の名前を明らかにされました。その明らかにされた神さまのお名前がこの「わたしはある」でした。イエスさまこそ、旧約聖書に記されてきた天と地の造り主、まことの神御自身であると、イエスさまは語られたのです。そのことを信じなければ人間は「自分の罪の中で死ぬ」と言われました。私たちは、自らが神さまによって造られた尊い存在であり、その自分を造ってくださった神さまを信じ、信頼して生きるとき、まことに健やかな人間として人生を歩むことができるのです。そうでなければ、その「罪」の中で死んでしまう、滅んでしまうのです。あるいは死んでいるような人生、滅びに向かうかのような人生となっていまうのです。ここで「罪」とは、神さまを信じないこと、自らがすべてであると思い込んで生きること、そのような自己中心的な生き方のことでしょう。
自分を造ってくださった神さまがおられて、そのお方が私を今日も支え導いてくださる、そのことを信じる、そのことに信頼する、そうして今日も平安な一日を歩みたいと思います。
イエスさまは十字架に向かって行かれました。イエスさまの十字架は、志し半ばの無念の死といったものでは全くありません。十字架こそ、イエスさまの地上の生涯の目的でした。人びとに迫害されて殺されること。それこそイエスさまの目的だったのです。しかしこれは「自殺」ではありません。「殉教」というのも少し違っているように思います。
自殺は限りなく自分を愛する、自分に執着する中で死を選んでいくことです。イエスさまの十字架そういうこととは全く違うでしょう。
殉教の死は、限りなく他者を愛する中で死を選んでいくことです。十字架は自殺ではありませんが、しかし殉教かというと、限りなく他者を愛する中で死に向かうということでは似ている部分があるかもしれませんが、殉教という言葉もしっくりきません。殉教には、どこか人間の目に立派な道、誇れる姿、輝きが見えます。しかしイエスさまの十字架には、そのような立派さも誇りも輝きもありません。むしろこの世から見れば、愚かな姿にしか見えないのです。しかしこの世が「愚か」と判断するその十字架にこそ、神さまの愛と義が完全に明らかにされた、それが聖書の語るところでしょう(第一コリント1・18)。
殉教の死と言われると近寄りがたいものを感じますが、イエスさまの十字架は、私たちに最も近くいてくださる神さまの姿です。
昨日は、少し風が冷たかったかもしれませんが、この時期にしてはずいぶん穏やかな一日でした。感謝です。いつも金曜日に週報等の印刷をしますが、昨日は加えて総会資料も印刷することができました。今回から複合機のみで印刷をすることになりましたので、ページの組み作業もする必要がありません。ずいぶん作業が楽になりました。それでいて輪転機の時よりもコストダウンしていますので、世の中はどんどん変化していきます。
日曜日にEテレで「日曜美術館」という番組を放映しています。美術家とその活動や作品の紹介が主な内容の地味な番組です。録画して観ているのですが、昨夜観たものは昨年暮れに放送されたもので、京都国立近代美術館で開催されていた「上野リチ」というデザイナーの展覧会の様子でした。なかなか面白い作品で、また面白い人生を歩まれた方でした。