主は与え、そして主は取られる方なのです

愛する者を失い、悲しみ、苦しんではいませんか。いつかあなたの庭の片隅に主が来られることを忘れないでください。主は必要と思われるときに、ご自分が植えた花を摘むためにあなたのところに来られるだけです。たとえ、あなたが自分でそうできるとしても、主がそうなさることを防ぐことができますか。主は与え、そして主は取られる方なのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、72頁f

2021年2月15日(月)

聖書の神に出会うということは、全能の神に出会うということであり、愛と義の神に出会うということです。それは自分の中にあると思い込みたい全能感、愛、義を相対化することです。相対化する、つまり絶対視しないとうことです。ところがどういうわけか教会のなかに自らを絶対視する人が生まれてしまいます。それこそ罪のなせる業なのだと思いますが、免疫不全のように、自らを絶対視する人によって、教会の交わりは破壊され、最終的に教会そのものが破壊されます。

主は与え、主は奪う、主の御名はほむべきかな、ということの中にとどまり続けることのできる信徒になりたいものです。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1・21)