静まりの時
- テーマ:世界を一つに
- 聖書箇所:ローマ10・14~21
- 日付:2026年10月12日(月)
14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。
「なんと美しいことか、
良い知らせを伝える人たちの足は」
と書いてあるようにです。
呼び求めるためには、信じなければならない。信じるためには、聞かなければならない。聞くためには、宣べ伝えられなければならない。宣べ伝えられるためには、遣わされなければならない。
これをみ言葉を聞いたことのない人びとへの宣教の方法論として読むことも可能だと思います。しかし文脈はイスラエルの救いについてですので、すでにみ言葉を聞いている人たちについてこのように語られています。よって、聞いてはいるけれども聞いていない人たち(16~21)が、いかに聞くことができるようになるか、がテーマとなっています。
呼び求めるためには、信じなければならない。しかしイスラエルは信じていない。イエスさまを信じていない。信じていないどころか、十字架にかけて殺してしまった。イエスさまだけではない、イエスさまを宣べ伝えている弟子たちを迫害している。どうして信じないのか。
それは宣べ伝える人がいないからであるといいます。すでにイスラエルには宣べ伝える人がいたはずです。しかし彼らは聞かなかった。それは宣べ伝える人を宣べ伝える人として受け止めていなかったからである。なぜ宣べ伝える人として受け止められていなかったのか。それは、その宣べ伝えている人たちが、遣わされた人たちであると捉えられなかったからである。もし宣べ伝えている人が遣わされた人であったと捉えることができたならば、そこに「聞く」ということが生まれ、呼び求める信仰に生きる者となれたであろう。そう語るのかもしれません。
語られていることばが、真実に聞かれるためには、その語っている人が、自分の単なる考えや主張をしているというのではなく、遣わされている、ということが鍵である。そう語るのだと思います。これは権威の問題だと思いますが、人間の権威ではなく、神さまの権威の問題です。
遣わされる、ということは、そこにその宣べ伝えている人個人の意思だけではなく、その背後に祈りの群れの意思があります。その群れとは、教会のことです。イエスさまのおからだである教会の意思があるのです。教会の宣教となって、宣べ伝えること、聞かれること、信じられること、呼び求めることと実を結んでいきます。
神の権威をもって宣べ伝えられてこそ、聞かれる福音。それはどのように宣べ伝えるのか。
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人の足は」。
美しさ。それが宣教のまた鍵である、と語るのかもしれません。