静まりの時 黙示録4・8~11
日付:2024年01月05日(金)
8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。
「聖なる、聖なる、聖なる、
主なる神、全能者。
昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」
9 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、
10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
11 「主よ、私たちの神よ。
あなたこそ
栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたが万物を創造されました。
みこころのゆえに、それらは存在し、
また創造されたのです。」
(8-11)
旧約聖書には以下の記述があります。
エゼキエル書1章
1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
・・・
4 私が見ていると、見よ、激しい風が北からやって来た。それは大きな雲と、きらめき渡る火を伴い、その周りには輝きがあった。その火の中央からは琥珀のようなきらめきが出ていた。
5 その中に生きもののようなものが四つ現れ、その姿は次のようであった。彼らは人間のような姿をしていたが、
6 それぞれ四つの顔と四つの翼を持っていた。
・・・
10 彼らの顔かたちは人間の顔で、四つとも右側には獅子の顔、四つとも左側には牛の顔、さらに四つとも鷲の顔を持っていた。
11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに触れ合っていて、もう二つはそれぞれのからだをおおっていた。
・・・
18 その輪の周りの縁は高さがあって恐ろしく、四つの輪の周りの縁は一面、目で満ちていた。
イザヤ書6章
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、
2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、
3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
ヨハネは、この個所を参照し、今朝のところへの引用をしたのだと思います。単純に引用したというよりも、ヨハネなりの解釈をし、説教として語っています。
「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた」を、そのまま読み、映像として想像すると、なにやらSFやオカルトの世界に迷い込んでしまいますが、テレビもインターネットもない時代に、聖書(旧約聖書)が読まれ、それを解釈し、礼拝の言葉として語られていく中では、人びとを励まし支える神さまのお言葉として豊かな響きを持っていたのだと思います。
すべてを見ることの可能な天上の生き物が、「御座に着いて世々限りなく生きておられる方」、すなわち三位一体の神さまに賛美を献げています。その賛美に導かれて、24人の長老が同じく礼拝を献げ、賛美を献げます。
天国では何をするのか。どのように過ごすのか。黙示録は、礼拝を献げること、と語ります。昼も夜も限りなく礼拝を献げる、賛美を献げる。それが、私たちが天国に行って成すことです。
そんなに賛美ばかりを献げていれば声が枯れてしまい、しんどいのではないか。そうかもしれませんが、賛美を献げることは、なにも声を出すことだけではないでしょう。身体全体で賛美を献げるかもしれません。あるいは沈黙をもって神さまに賛美を献げるかもしれません。いずれにせよ、迫害の中にあった初代教会にとって、何のはばかりもなく、自由に神さまを賛美することのできる時がやってくること。それは大きな希望だったと思います。
「また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、」(9)
「栄光と誉れと感謝」。神さまのご栄光。神さまが確かにご存在しておられることを喜ぶこと。神さまの誉れ。神さまこそ何にもまして尊いお方であることを告白すること。神さまへの感謝。神さまに向かってこころから、ありがとう、ということ。別の言葉で言えば、神さまを愛すること。神さまへの愛を告白することです。礼拝を献げる、ということは、神さまを愛することなのです。
「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。」(10)
24人の長老とは、単純に教会のリーダーを指していると考えてよいと思いますが、少し想像を膨らませると、旧約聖書12部族と、新約聖書12使徒を合わせて24。当時のキリスト者への迫害は、ローマからのものもありましたが、最初はユダヤ人からのものでした。イエスさまも、当時のユダヤ人の宗教指導者によって十字架につかれることになりました。迫害する者、迫害される者。その二つのグループが一つになって神さまを賛美している。神さまへの賛美は、さまざまな対立を乗り越えて一つとなる道を開きます。
「また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。」
「自分たちの冠」。 この24人の長老たちは、自分たちの王としての立場や力を投げ出して、神さまを礼拝し賛美をしました。神さまを礼拝する、ということは、自分が王であることを止めることです。神さまを礼拝している、賛美していると言いつつ、自分が王である、ということは成り立ちません。自分が王である限り、神さまを礼拝し、賛美するということはあり得ないのです。
「主よ、私たちの神よ。」
「私たちの主、また神よ」(共同訳2018)。「われらの主にして神」。ラテン語で「ドミヌス・エト・デウス・ノステル」。これは、ローマ皇帝ドミティアヌスが、「自分自身を神的名誉を偽って名乗るところの公称」(Lv.ハルティンクスフェルト、『ヨハネの黙示録(コンパクト聖書注解)』、教文館、1997年、63頁)であったと言われます。
その言葉を引用しつつ、「あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」と、三位一体の神、人を救うために、自らが人となられた神、十字架に死に、復活されたお方こそ、私たちの主であり、神である、と歌いました。ここに皇帝礼拝への拒否が現れていると言われます。
イエスさまを信じて生きる者は、イエスさまを王として生きます。それは自分を王とすることから自由になり、さまざまな世の暗闇の力から解放され、まことに神に仕え人に仕える者となることです。