わたしはあなたの前を進み、 険しい地を平らにし、 青銅の扉を打ち砕き、 鉄のかんぬきをへし折る。

静まりの時 イザヤ45・1~8
日付:2024年01月04日(木)

1 主は、油注がれた者キュロスについて
 こう言われる。
 「わたしは彼の右手を握り、
 彼の前に諸国を下らせ、
 王たちの腰の帯を解き、
 彼の前に扉を開いて、
 その門を閉じさせないようにする。
2 わたしはあなたの前を進み、
 険しい地を平らにし、
 青銅の扉を打ち砕き、
 鉄のかんぬきをへし折る。
3 わたしは秘められている財宝と、
 ひそかなところに隠された宝をあなたに与える。
 それは、
 わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、
 イスラエルの神であることを
 あなたが知るためだ。
(1-3)

 ペルシャの王キュロス。この異邦人の王、異教の国の王を、神さまは、イスラエルを解放する者として備えられました。「油注がれた者」とはメシア、すなわちキリストという言葉です。キリストという言葉は、自分たちをその時の苦しみから解放してくれる王、救世主のことですが、まことのキリストであるイエスさまは「罪の赦しによる救い」(ルカ1・77)を成し遂げて下さいました。罪の赦しによる救いこそ、私たちになくてはならない「救い」です。

 神さまが、異邦人の王キュロスを、油注がれた者としてお立てになられた理由は、「わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを あなたが知るため」であるとここで語られています。この「あなた」はキュロス自身のようです。神さまは、油注がれたキュロス自身が、イスラエルの神さまこそまことの神さまであることを知るために、キュロスをお立てになった、と理解することができます。
 神さまに用いられる、ということを通して、神さまこそまことの神であることを知る。多くの場合、神さまを知ることによって、神さまに用いられる人となるのだと思いますが、ここでは逆で、いきなり神さまに用いられることによって、神さまが本当に神であることを知る、というのです。
 教会に来て、神さまを知る者となります。そのために、まず神さまへの知識を蓄えて、それから奉仕に参加する、というのが、ある意味で大切な順序だと思います。しかしとりあえず奉仕に参加して、その中で神さまこそ本当の神さまなのだと知るという道も大切かもしれません。もちろんどんな奉仕でも、とりあえず参加して良い、ということではないと思いますが。
 礼拝は英語で、サーヴィス、といいますから、礼拝こそ最大の奉仕です。とりあえず礼拝に参加する、ということで、神さまを知る、という道が開かれていく、ということは、真実だと思います。

 わたしが主である。ほかにはいない。
7 わたしは光を造り出し、闇を創造し、
 平和をつくり、わざわいを創造する。
 わたしは主、これらすべてを行う者。
8 天よ、上から滴らせよ。
 雲よ、義を降らせよ。
 地よ、開け。天地が救いを実らせるように。
 正義をともに芽生えさせよ。
 わたしは主。わたしがこれを創造した。」
(6-8)

 神さまはすべての創造主ですから、光を創造されただけではなく、闇も創造され、平和を創造されただけではなく、わざわいも創造されました。
 闇を創造し、わざわいを創造された、ということはいったいどういうことでしょう。暴君のように気まぐれにすべてを創造されたということでしょうか。私たちを苦しめることになんとも思われないお方なのでしょうか。いずれも聖書の語ることではないと思います。

 聖書が、神さまがすべての創造者であると語るのは、すべてのことは、神さまの「良し」によって存在している、と語っているのだと思います。受け入れがたい出来事が起こります。そこには人間の罪や悪が見え隠れすることもあります。しかしそうばかりとも言えません。多くの自然災害には、なぜこんなことが起こるのか、神さまが創造者である、というのならば、なぜこんなことを起こされるのか、と問いたくなります。

 しかしそれでもなお聖書が、神さまはすべての創造者なのだ、と語るのは、神さまはすべてのことをその御手をもって支えておらえる、と語るのだと思います。そしてそれがそのわざわいに、意味を与えます。
 わざわいの意味や原因を語ることは出来ません。できたとしても、せいぜい要因は説明できるかもしれませんが、それを解明して見せることはできないのです。
 しかし意味は分からないけれども、確かに神さまは、この苦しみの中で、ともにいて下さる。そして支えていてくださる。「神ならば、どうしてこんなことを容認したのか。神ならば、今すぐにでも十字架から降りて、自分たちを救え」(ルカ23・35~)という人間の言葉にさらされながら、それでもじっと十字架を耐えておられる。その神さまがともにいて下さるのです。それがすべての創造者である神さまが、いまもなさっておられる創造の御業、創造主たる本領を発揮しておられることなのです。

 粗悪品が出た時、これを作ったのは誰だ、との責任追及の声に、はい、それを作ったのは私です、と名乗り出てくださった。ちょっとそんな感じがしています。いっしょに非難を受けていてくださる、という感じ。このようなイエスさまを信じ、このようなイエスさまが、世の終わりまであなたとともにいる、と語ってくださったのですから、私たちは自分で自分の義を証明しなければならない生き方から解放されました。

 わざわいをも創造する神さまご自身は、同時に善であり義であることを信じています。そうすると、いま自分の目から見てわざわいにしか見えないことの中にも、神の善や神の義があることを信じることも可能となるのではないか。これはたやすく言う言葉ではありませんし、苦しみにあっていない者が、苦しみの中にある人に向かって語る言葉ではないと思います。しかし苦しみの中にある者自身が獲得していく言葉として生まれてくるならば、そこに生きる力が生まれるのではないかと思います。
 傍らにいる者のできうることは、苦しみの中にある友の側にいることではないかという気がします。イエスさまがしてくださったように。

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(ヨハネ9・1~3)