さあ 主をほめたたえよ

静まりの時 詩篇134・1~3
日付:2023年12月29日(金)

都上りの歌。
 1 さあ 主をほめたたえよ。
 主のすべてのしもべたち
 夜ごとに主の家で仕える者たちよ。
2 聖所に向かってあなたがたの手を上げ
 主をほめたたえよ。
3 天地を造られた主が
 シオンからあなたを祝福されるように。

 主のすべてのしもべたちに向かって、そして主の家、すなわち神殿で仕える人たちに向かって、主をほめたたえよ、と呼びかけています。
 しもべ、そして仕える人の役割にはさまざまなものがあったと想像しますが、ここで何よりも、主をほめたたえること、が求められています。

 賛美を献げる、ということは、命令されてできることではありません。賛美はいつも自発的なものでなければなりません。もし他者の命令によって賛美を献げる、ということになると、そこで捧げられる賛美は、すでに賛美ではなくなっています。あるいは賛美とは異質なものとなっています。

 もし賛美を命令することが出来るとすれば、神さまご自身か、あるいは、自分自身だけでしょう。私が私に命令する、というのは少し不思議な感じがしますが、不安に沈む「私」に向かって、神さまに造られた者として私が「さあ、賛美を献げよう」と励ますのです。

 「聖所に向かって」賛美を献げること。神さまは何処にでもおられるのですから、賛美を献げる方向は、あまり関係がないように思いますが、ここでは、賛美を献げる方向を「聖所」と語ります。
 私たちはどの方向に向かって賛美を捧げるのか。うっかりすると自分自身に賛美を捧げかねない私たちが、しっかりと神さまを賛美できるために、自分とは違う方向に向かう、神さまに向かう、ということが大切なのかな、と思いました。
 教会で賛美が献げられるために、会衆は前に向かって歌うのですが、そこには十字架と聖書の置かれた講壇、そして聖餐卓があります。もしその中心に人間が立ってしまったなら、神さまに向かって賛美を献げる、ということが不明確になってしまう。キリスト教会はそのように考えてきて、礼拝堂のデザインを慎重に整えてきました。

 「手を上げて」賛美を献げること。実際に手を上げる、ということも必要かもしれませんが、かつてアマレクとの戦いにおいてモーセが手を上げ続けたように(出エジプト17章)、祈りの手を上げ続けながら、賛美を献げることは大切なことでしょう。
 私は、このような個所を読むと、お手上げ、という言葉を思い起こします。お手上げとは、もう成すすべもない、もはやお手上げだ、ということですが、人間の業がすべて鳴りやんだところでこそ、神さまをほめたたえる、ということが可能となるのだと思えてきます。
 賛美を献げる、といってもそれは精神的、抽象的なことではありません。唇から賛美があふれ出す、ということですが、全身をもってなすことでしょう。
 30年以上前ですが、聾話者とともに「エパタ聖書友の会」という聖書の学びのときが持たれていました。聾話者の伝道者を招き、特別集会も行われました。音的には静かな集会でした。参加者が全身で賛美を献げ、説教者に応答する姿に、大いに感動したことがありました。
 全身をもって賛美を献げる、といっても、ステレオタイプのように手を上げる、ということに抵抗感をもつこともあります。さあ、手を上げましょう、などと言われると、ちょっと躊躇するというか。
 形はどうであれ、心一杯に、全身で神さまに向かってほめ歌を歌いたいものです。

「天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。」

 天地を造られた主ですから、どこからでも私たちを祝福することが出来ます。しかしことさらシオンから、といいます。それはシオン(ザイオン)が特別な場所だからではありません。シオンはもともとは異邦人であるエブス人の町でしたが、ダビデ王がそれを攻め取りダビデの町となった(第2サムエル5章7節~)ころからか、重要な土地となったのだと思います。しかし、私たちの主は、二、三人であっても、主の名によって集うところには、ともにおられます。
 聖所に向かって賛美を献げる者に、その聖所のあるシオンから祝福を与えて下さる。賛美を献げるところから、祝福はやってくる。祝福そのものである神さまに賛美を献げる者には、その神さまから祝福がやってくるのです。