静まりの時 黙示録22・16~21
日付:2023年12月28日(木)
16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
イエスさまは、輝く明けの明星です。
夜明けと日の出は微妙に違います。私のスマホでは、今朝は、夜明けが6時34分、日の出は7時2分となっています。約30分ずれています。江戸時代には、夜明けは、日の出の二刻半前、とされていたそうです。夜明けとは、まだ太陽は地平線に出てはいないのだけれども、その光が空を明るくしつつある、太陽の出現を予感させる空模様、ということでしょう。
この薄ら明かりの空に、ひときわ明るく輝いているのが、明けの明星、です。金星のことと言われます。ほら、夜明けだよ、日の出は近い、間もなくだ、と告げているのです。
イエスさまは、その明けの明星のように、希望が予感される薄ら明かりのそらに、確かな希望の光として、すでに輝いていてくださる存在である、というのです。
迫害の時代。その厳しい迫害に耐えながら信仰に生きた人びと。彼らの希望の光は、ひたすらイエスさまご自身でした。主にある私たちも、薄ら明かりの中に輝くイエスさまを見上げて、日の出を待ち望みたいと思います。
17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
花嫁、すなわち教会は、御霊の助けをいただいて、あるいは、御霊とともに「来てください」と歌います。そしてその教会の告白に合わせて同じように歌おう、と、世界に向かって教会は宣教します。さあ、一緒に主を待ち望もう、と。
「主よ、来てください」はこの黙示録の個所では、原文のギリシャ語で「エルコマイ」という「来る」という意味の単語ですが、第一コリント16章22節の「主よ、来てください」は、同じく原文のギリシャ語では「マラナ・タ」とアラム語のギリシャ語音で表記されています。今日私たちが、ハレルヤ、とか、アーメン、とか言うのと同じように、マラナ・タも礼拝用語として使われていたようです。
渇く者は来なさい、いのちの水が欲しい者は、ただで受けよ、と教会は宣教の言葉を語り続けます。
18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
「これ」とはこの黙示録、さらには聖書の言葉そのものです。
人間は、これに「つけ加え」たくなる、あるいは「取り除」きたくなる。
どうしてつけ加えたくなるのか。どうして聖書の言葉だけでは不十分であると考えてしまうのか。
あるいはどうして取り除きたくなるのか。どうして受け入れやすい言葉と、受け入れにくい言葉を選り分けようとするのか。
東方の博士たちのもたらした「知らせ」はヘロデ大王やエルサレムの人びとにとっては、自分たちの生活を脅かす「ことば」でした。自らの家庭生活の罪を指摘するバプテスマのヨハネの「ことば」は、ヘロデ、ヘロデア夫妻にとっては、邪魔な「ことば」でした。彼らは、その神のことばを取り除こうとしました。
あるいは、キリスト教会の歴史上に登場した様々な異端の中には、想像が豊か過ぎて、聖書にはそんなこと書いていないのだが、というようなことをまことしやかに語るものがありました。今日も、聖書は読むけれども、何かそれにつけ加えたようなこと、例えば、体験的なことも、結果的につけ加えることになるでしょう。
つけ加えたくなる、あるいは取り除きたくなる。そこに人間の罪が現れています。聖書の言葉自身が、私たちのありようを明らかにする、もろ刃の剣なのです。
確かに聖書の言葉には、難解なところがあります。意味が分からない、ということの中には、受け入れがたい、ということも含んで、難解なところがあります。それを説明しようとして、さまざまに解釈しようとします。それ自体は大切なことだと思います。しかし結果的につけ加えたり、取り除いたりしたことになったとすれば、立ち止まらなければなりません。そうしてありのままに受け止めるということを、やり直していかなければなりません。
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
やや文章の流れとしては散文から逸脱しているような感じです。これを詩文、あるいは礼拝での交唱と考えても良いのではないか、と思います。
牧師:これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」
会衆:アーメン。主イエスよ、来てください。
牧師:主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
この黙示録は、
「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。」(黙示録1・10)
とありますので、日曜日に語る牧師の説教の言葉と理解されることが多いようです。迫害の中に行われた礼拝ですから、たくさんの隠語(secret word)が使われています。ですから、その最後が、このような交唱になっていると考えるのも無理がないかな、と思います。私たちは、黙示録を読むごとに、初代の教会に生きた先輩のキリスト者たちとともに礼拝を捧げています。